出自と行状
- 沈客卿、呉興武康の人。風采美しく談論に長け博く群書に渉り、施文慶と少くして親昵した。陳に仕え尚書儀曹郎に累遷し、聡明で口辯に優れ故事に精しく、朝廷の体式・吉凶儀注の疑議は客卿が斟酌裁断し、理には経に合わぬところもあったが衆はこれに屈することができず概ね施行された。至徳初、中書舎人・歩兵校尉を兼ね金帛局を掌り、旧制で軍人・士人二品の清官には関市の税が課されなかったが、後主が宮室を大いに造営し府庫が窮乏する中、客卿はしばしば異端を立て百姓からの徴収を強め、士庶を問わず関市の税を課しさらに重くした。陽恵朗を太市令、暨慧景を尚書金倉都令史とし、二人とも小吏出身で簿領の考校に厳しく、糾弾は苛烈で百姓は嗟怨したが、客卿は舎人としてこれを統括し毎年の税収は常格の数十倍に達し後主は大いに喜んだ。散騎常侍・左衛将軍・舎人を加えられ、恵朗・慧景も奉朝請に至った。禎明三年(589年)、客卿は文慶とともに機密を掌り、隋軍が至ると文慶は樂游苑に出て内外の事は客卿が総べた。台城陥落後、隋の晋王は客卿の重賦厚斂が上(帝)を悦ばせただけと断じ、文慶・暨慧景・陽恵朗らとともに石闕前で斬られた。徐哲は出自不詳だが施文慶に引かれて制局監となり刑法を掌り、同じく客卿と共に誅された。