南史卷七十七 列傳第六十七 周石珍

周石珍

  • 周石珍、建康の厮隷(下賤な使用人)の出。世々絹を販売する家業であったが、梁天監中に次第に宣伝左右へ昇り、身長七尺で応対に長け、後に制局監に至り開陽令を帯びた。直閤将軍に位し、太清三年(549年)南豊県侯に封ぜられ制局を領し続けた。台城が未だ陥落せぬうちから侯景に書を射て通じ、門が開くと石珍はなお帝の側に侍していた。賊がその徒を殿内に入れ驢馬を出入りさせても、武帝が文徳殿で怪しんで問うと石珍は「みな丞相の甲士です」と答え、帝が「何の丞相か」と問うと「侯丞相です」と答えたため、帝は「侯景ごときが何の丞相か」と叱った。石珍は賊に媚びを求め、賊党の田遷を己の子として養い、遷も父のように事えた。侯景の簒位に際し制度・儀仗はすべて石珍が発案した。侯景平定後、中書舎人の厳亶らとともに江陵へ送られた。亶はもと齋監として台省に久しく詳しく、賊に居ても要職に次いだのは石珍に亜ぐ地位であった。簡文帝擁立後も亶は北人風の靴を上殿に履き粛恭の礼を欠き、怪しむ者に「私がどうして劉禅を畏れようか」と語った。侯景の巴陵郡包囲に従い「荊州はなぜ降伏しないのか」と叫んだが、江陵に至り市で刑に処されるに際し石珍に「我らの死もまた罪の報いだ」と泣いて語り、石珍はその子の昇とともに抱き合って哭き、亶は監刑人に「湘東王(元帝)に伝えてほしい、私を廃さなかったことに何を興そうとしたのか」と語り、その言葉のまま斬られた。以後、賊党を殺す際には板で舌を挟み釘で打ち再び言葉を発せられぬようにしたという。