南史卷七十六 列傳第六十六 庾詵

出自と行状

  • 庾詵、字は彦寶、新野の人。幼くして聡警篤学、経史百家に通じ緯候書射棋算機巧に至るまで一時に絶し、性は夷簡(穏やかで簡素)を託し林泉を特に愛した。十畝の宅で山池が半ばを占め、蔬食弊衣で産業を修めなかった。火事の際は書数篢を持ち出すのみで、池上に座って「竹を損なうことだけを恐れる」と語った。舟で沮中の山舎から米百五十石を積んで還る際、他人が三十石を寄せ積みしていたが、着いてから「君が三十斛、私が百五十斛」と言い張られても黙って取らせた。隣人が盗みの罪で誣告され連座した際、その哀れみから二万銭を工面し門生に親族と偽らせて代わりに賠償させ、隣人が謝辞を述べようとしても「私は天下の無辜を憐れんだだけ、謝礼を期待したわけではない」と応じた。梁武帝とは若い頃から親しく、挙兵に際し平西府記室参軍に署されたが屈せず、平生あまり交遊せず河東の柳惲が交わりを求めたが拒んで受けなかった。普通中、詔で黄門侍郎に任じられたが病と称して起たなかった。晩年は釈教を尊び宅内に道場を立て六時の礼懺を欠かさず「法華経」を毎日一遍誦した。ある夜、道人が現れ「願公」と自称し止宿したいと語り、詵を「上行先生」と呼んで香を授けて去った。中大通四年(532年)、寝所で驚き覚めて「願公が再び来た、これ以上留まれない」と語り顔色変わらず言い終えて没した。享年七十八。室中の者はみな空中に「上行先生已に弥陀浄域に生ず」の声を聞いたという。武帝は詔で「貞節処士」と諡し高烈を顕彰した。詵の撰した『帝暦』二十巻、『易林』二十巻、『続伍端休江陵記』一巻、『晋朝雑事』五巻、『総抄』八十巻が世に行われた。子の曼倩、字は世華も早くに令誉があり、元帝が荊州にあった時に中録事参軍として出仕するたび帝は必ず目送し、劉之遴に「荊南に君子が多い」と語った。後に諮議参軍に転じ、『喪服儀』『文字体例』『老子義疏』『算経』『七曜暦術』および文章、凡そ九十五巻を著した。子の季才も学行があり、承聖中、中書侍郎に位し、江陵陥落後は例により長安に入った。