出自と行状
- 范元琰、字は伯珪、一字は長玉、呉郡銭塘の人。祖の悦之は太学博士で徴されても至らなかった。父の霊瑜は父の喪の哀毀により卒し、元琰は幼子ながら哀慕し礼を尽くしたので郷党は異とした。長じて学を好み経史に博通し仏義にも精しかったが、その長を誇らず人に驕らなかった。祖母が癰を患うと自ら含吮し、人と話す際も常に物を傷つけることを恐れた。家におれば城市に出ず、独居中も賓客に対するかのように振る舞い、見る者はみな容を改め憚った。家は貧しく園蔬のみを業とし、ある時人が自分の菘(菜)を盗むのを見ると急いで逃げ隠れ、母がその理由を問うと事実を答え、母が盗人の名を問うと「先ほど退いたのは彼の恥を思ったから、名は明かさない」と答え、母子でこれを秘した。また溝を渡って筍を盗む者があると元琰は木を伐って橋を架け渡らせたので盗人は大いに恥じ、以後郷里に窃盗はなくなった。斉建武初、曹武の平西参軍に徴されたが至らなかった。当時、始安王遙光が揚州として徐孝嗣に「曹武参軍が礼賢の職といえるか」と語り西曹書佐で招こうとしたが、遙光が敗れて実現せず、人々はこれを恨んだ。沛国の劉瓛は深く器異し常に表して称えた。天監九年(510年)、県令管慧辯が義行を上言し、揚州刺史臨川王宏が招いたが至らず、家で卒した。