出自と行状(附・兄慧鏡、慧鏡子曇浄)
- 劉慧斐、字は宣文、彭城の人。父の元直は淮南太守。慧斐は少くして博学能文、梁の安成王法曹行参軍として起家し、都に還る途中で尋陽の匡山に遊び、処士張孝秀に出会い相得て意気投合し終焉の志を懐いた。以後仕えず東林寺に居し、山北に一園を構え「離垢園」と号し、人々は「離垢先生」と呼んだ。釈典に精しく篆隷をよくし、山中で自ら仏経二千余巻を書写し常誦は百余巻に及び、昼夜行道を怠らなかった。遠近から慕われ、簡文帝は江州に臨む際に几杖を贈った。論者は「遠法師の没後将に二百年、ようやく張・劉の盛が現れた」と評した。元帝及び武陵王らからの書問も絶えなかった。大同三年(537年)卒した。
- 兄の慧鏡は安成内史。元直が郡で罪を得た際、慧鏡は朝士を歴訪して哀を乞い懇切を極め、孝を以て知られた。子の曇浄、字は元光は篤行で父の風を継ぎ、安成王国左常侍として起家した。父が郡で没すると奔喪して数日飲食を絶ち絶えては蘇り、哭くたびに嘔血し服が明けても毀れて病を得た。詔で士姓に四科を挙げさせた際、曇浄は叔父慧斐の推薦で孝行に応じ、武帝は海寧令に用いようとしたが、曇浄は兄が未だ県令になっていないことを理由に譲り、自らは安西行参軍に除された。父の没後は母への孝養がなおさら篤く、自ら粥を作って他人に委ねず、母の病には帯を解かず、母が没すると水漿を口にせぬこと十日近くに及んだ。母の喪は薬王寺に権瘞(仮埋葬)されたが、寒中に単布の衣で瘞所に廬し昼夜哭泣を止めず、喪明け前に卒した。