南史卷七十五 列傳第六十五 關康之

出自と行状

  • 關康之、字は伯愉、河東楊の人、南平昌に寓居した。若くして篤学、姿貌豊偉で、下邳の趙繹が文義に優れると称された。康之と友善で、特進顔延之ら当時の名士十数人が山に候ねると、康之は髪を散らし黄布の帊を被り松葉を敷いて白石を枕に臥し、まったく相手にしなかったので延之らは嗟嘆して退き敢えて干渉しなかった。晋陵の顧悦之が王弼の易義に難じた四十余条について康之は王を助け顧に難じ、遠く情理があると評された。毛詩義や経籍の疑滞についても多く論釈し、沙門支僧納に算を学びその能を尽くした。徴辟には一切応じず人事を絶って志を守った。弟の双之は臧質の車騎参軍として質とともに赭圻に赴き病没し、康之は喪を迎えに行き虚労の病を得て二十余年床に臥した。暇があれば文義を論じた。宋孝武帝即位後、大使を諸国に巡らせた際、康之を徴聘すべしと薦められたが顧みられなかった。性は清約で一室に独処し、妻子にすら滅多に会わず賓客も通さなかった。弟子への学問伝授は左氏春秋に優れ、斉高帝が領軍であった時に本を送って点定させ、また礼論十巻を作らせて高帝はこれを絶賛し、崩ずるとこれを玄宮に納めさせた。宋明帝の泰始初、平原の明僧紹とともに徴されたが病と称して辞した。
  • 河南の辛普明、東陽の楼恵明も篤行で知られた。普明、字は文逹、若くして康之に学び至性は人に過ぎ、貧しい暮らしの中でも兄が没した後、兄弟の帳(蚊帳)を弔いに施したため蚊が多くなっても侵螫を口にしなかった。会稽に寓居し士子はその行いを敬い、兄を葬るとき皆が金を贈ったが、二度目からは受けず「兄の墓が周到でなかったため受けたが、今は足りている、亡き者からさらに得るべきではない」と答えた。斉豫章王嶷が揚州として議曹従事に招いたが応じなかった。
  • 惠明、字は智逺。金華山に住み道術を持ち、以前は毒害の多い地であったが惠明が住むようになると害が絶えた。名を隠し人に知られなかったが、宋明帝・斉高帝の召しに応じず、文恵太子が東宮に苦請して至らせても間もなく辞去した。金華から西下する途中、豊安に立ち寄ったところ、唐宇之の妖賊が入城し塗地となる中で豊安だけは全き無事であったため、人々は先覚と称した。斉武帝は敕して館を立てさせた。