南史卷七十五 列傳第六十五 沈道虔

出自と行状

  • 沈道虔、呉興武康の人。仁愛にして老易を好み、県北の石山の下に住んだ。孫恩の乱の後の飢荒で県令庾肅之が県南廃頭里に迎え宅を建てたが、時に石山の精廬に戻って孤児となった兄子らと共に釜を分けた。琴を戴逵に、その学を王敬弘に深く重んじられた。郡州から凡そ十二度招かれたが応じなかった。園の菜を盗む者があれば身を隠して盗ませ、竹筍を抜こうとする者には「これを惜しむのは林に育てたいからだ、他に良いものを送ろう」と言い、盗人は恥じて受けなかったので、道虔は門内に置いて帰した。捃拾(落穂拾い)で生計を立て、争いがあれば自分の得た分を譲り、諍う者は恥じ入り「道虔に知られぬように」と言い合うようになった。冬に着る物が無いのを聞いた戴顒が衣と銭一万を贈ると、道虔はこれを兄弟の子で衣の無い者に分け与えた。鄉里の少年が学びに集まり、道虔は食にも窮したが武康令孔欣之が資給し、受業者は皆成就した。宋文帝は使者を遣わし銭三万・米二百斛を賜ったが、すべて孤児の兄子らの婚姻に充てた。員外散騎侍郎に徴されたが応じなかった。累世仏に事え、父祖の旧宅を寺とし、四月八日の請像の日には家じゅうで感慟した。老いて菜食し、常に日々の資を欠いたが琴書を楽しみとし倦まなかった。文帝は郡県に命じて時に応じて資給させた。卒後、子の慧鋒が父の業を継ぎ州の辟召に応じなかった。