南史卷七十二 列傳第六十二 何之元

梁典の著者

  • 何之元、廬江灊の人。祖父何僧達は斉の南台書侍御史、父何法勝は行いで知られた。之元は幼くして学を好み才思に富み、喪に礼を過ぎるほど尽くした。梁の天監末、司空袁昂の表薦で召見され信義令に累進した。同族の何敬容は高い声望を持っていたが、之元は付き合いを避け「昔、楚人が観起に寵愛された話がある、馬を持つ者は皆滅んだ、徳が薄く任が重ければ必ず覆敗が近い、私はその利を得る前に禍を招くのを恐れる」と語り、識者はこれを称えた。侯景の乱で武陵王が太尉として承制で南梁州刺史・北巴西太守を授かり、成都から東下しようとした際、之元は蜀の人々とともに出兵に反対する上表をしたが軍議を乱すとして艦中に幽閉された。武陵王の軍が敗れると邵陵太守劉棻に従って郡に赴いたが、まもなく魏が江陵を陥落させ劉棻も没し、王琳が記室参軍に招いた。王琳が蕭荘を擁立すると中書侍郎に任じられたが、王琳の敗北後は斉に仕え揚州別駕として寿春に居した。北伐軍の湘州刺史始興王叔陵が功曹史柳咸を遣わして招いた際、之元は陳朝との旧怨から大いに恐れたが、孔璋(陳琳、袁紹方から曹操方に降った文人)が罪なく左車(曹操側の重臣、蒯通の弟子)に用いられた故事を読み柳咸に従って湘州に赴き、中衛府諮議参軍に累進した。叔陵誅殺後は人事から身を退き「梁典」を著し、斉の永元元年(499年)から王琳の没(569年)までの75年間を30巻にまとめた。陳の滅亡後は常州晋陵県に移り住み、隋の開皇13年(593年)家で没した。