南史卷七十二 列傳第六十二 杜之偉

儀注編纂の専門家

  • 杜之偉、字は子大、呉郡銭塘の人。家は代々儒学を伝え三礼を専門とした。父の杜規は梁の奉朝請。之偉は幼くして才気に富み15歳で文史や儀体故事を通覧し早熟と評された。僕射徐勉はその文才を重んじ、中大同元年(546年)梁武帝が同泰寺で捨身供養を行った際、勉に儀注を撰させたが先例がなかったため之偉を招いて草案を作らせ、東宮学士となり劉陟らと群書を抄撰した。撰した「富教」「政道」の二篇はいずれも之偉が序を書いた。太学限内博士を兼ね、大同7年(541年)皇太子が国学で釈奠を行った際、楽府に孔子・顔子の登歌詞がなかったため之偉に作らせ伶人が伝習し以後の慣例となった。安前邵陵王刑獄参軍に転じ、若くして地位は低かったが強い記憶力と才能で名声を得、吏部尚書張纘は彼を「廊廟の器」と深く評価した。陳武帝が丞相であった頃その名を聞き記室参軍に招き、中書侍郎・領大著作に進み、受禅後は鴻臚卿を除せられたが著作の職はそのまま兼ねた。著作職の辞退を願ったが優詔で許されず、太中大夫に累進し梁史の撰述を敕命され官にあって没した。文集17巻。