南史卷七十二 列傳第六十二 卞彬

風刺賦の名手

  • 卞彬、字は士蔚、済陰冤句の人。祖父卞嗣之は中領軍、父卞延之は若くして上虞令となり剛気を持ち、会稽太守孟顗が令長を軽んじる態度を見せると幘(頭巾)を脱ぎ地に投げ「私があなたに屈していたのはこの幘のためだ、今それを投げ捨てたからにはあなたに屈しない、あなたは一世の勲門を頼みに国士を侮る」と言って去った。彬は険しい気性で才があり物議を醸すことが多かった。斉高帝の輔政の頃、袁粲・劉彦節・王藴らは反対の立場を取り、沈攸之も挙兵したが敗れた。粲・藴は敗れても攸之がなお健在であった間、彬は高帝の事業が成らないと見て「近ごろ『可憐可念、尸著服、孝子不在日代哭、列管暫鳴死滅族』という謡を聞きます、あなたはご存知ですか」と述べた。これは劉彦節(王藴の父の喪と同時に死んだ意)と褚彦回(『孝子不在日』は禇の字とかけた)が敗れることを予言する諷刺の謡であり、高帝は不快に思った。後日、彬は東府に高帝を訪ねた際「殿下はまさに東宮の府、青渓を鴻溝とし、鴻溝の東を斉、西を宋とすべきです」と述べ「誰が宋は遠いというのか、私はそれを望み見ている」との詩を詠み、高帝の逆鱗に触れ数年間仕官の道を閉ざされた。趙壱の窮鳥賦にならって枯魚賦を作り自らの心境を述べた。のち南康郡丞となり、酒を好み形骸を投げ捨てるように暮らし、仕官が思うようにならないと「蚤蝨賦」「蝸虫賦」「蝦蟇賦」などを著し、いずれも権勢を風刺する内容であった。蚤蝨賦の序で「私は貧しく10年一つの綿入れも新調せず、寝床は敗絮のまま、体は病がちで身の回りを整える暇もなく、垢にまみれ蚤や虱が湧いてもどうしようもない」と自嘲を述べ、諺の「朝生まれて夕方には孫がいる」ほど蚤虱が繁殖する様を「三十五年、孫々子々」と表現した。禽獣決録では「羊は淫にして狠、豬は卑しくて率直、鵝は頑迷で傲慢、狗は険しくて出しゃばり」と評したが、これは羊で呂文顕、豬で朱隆之、鵝で潘敞、狗で〔文度〕を暗に指したもので、その険しさがうかがえる。蝦蟇賦では「紆青拖紫」(高官の印綬)を「蛤魚」に見立て令僕(尚書令・僕射)を風刺し、蝌斗(オタマジャクシ)を令史(下級官吏)の右往左往になぞらえたといい、文章は巷間に広まった。のち尚書比部郎・安吉令・車騎記室を歴任、酒を好み瓠壺や瓢を杯にし杬皮を肴とし、帛冠を12年替えず、大きな瓠を火籠にするなど奇矯な暮らしを続け、自ら「卞田居」と号し妻を「傅蠶室」と呼んだ。「あなたは節操も持たず官も得られない、なぜか」と問われると「五木の賽を投げて十回中十回勝つほどの技があっても投げの拙さは変わらない、私が投げるのはこれと同じ」と答えたという。綏建太守として官にあって没した。永明中(483-493年)、琅邪の諸葛朂は国子生の頃「雲中賦」を作り祭酒以下を風刺し東冶に投獄されたが武帝に赦された。陳郡の袁嘏も自分の文才を誇り「私の詩は重石で押さえねば飛んでいく」と豪語したが、建武末(498年)諸暨令として王敬則の賊に殺された。広陵の高爽は博学多才だったが、劉蒨が晋陵県に赴任した際訪ねても取り合わなかったため恨みを抱き、後に爽が蒨の後任として県令になると、蒨からの厚い餞別を受け取りながら「高晋陵が自ら人に問われて答えるに、劉蒨が晋陵令に贈ったのであって爽には関係ない」と嘲る手紙を送った。また困窮を訴える手紙を受け取ると「羊を飼うのに困るなら羊を売って米を買えばよい」と答えるなど辛辣な性格であった。孫抱が延陵県令となった際も訪ねたが冷淡にあしらわれ、県の閣下で筆を取り鼓に「腹は八尺あっても腸は一寸もない、面の皮は厚く打たれても平気だろう」と書きつけたという機知に富んだ人物であった。事件に連座し投獄された折には「鑊魚賦」を作って自らを喩え、名文と評され後に赦された。抱は東莞の人、父の孫廉は呉興太守。抱は吏務に優れ体は肥満し腰帯は十囲もあり、爽はこれをからかったという。