孔広・孔逭ら
- 丘巨源、蘭陵蘭陵の人。若くして丹陽郡孝廉に挙げられ宋孝武帝に知られ、大明5年(461年)徐爰の国史編纂を助けた。帝の崩御後、江夏王義恭が掌書記に取り立て、明帝の即位でも詔誥に参与、南台御史から王景文の鎮軍参軍となった。元徽初年(473年)桂陽王休範が尋陽で挙兵した際、巨源の文才を頼って迎えたが、巨源はかえって斉高帝に密告し敕を得て都に留められ、桂陽の乱では中書省で檄文を撰した。事平定後、奉朝請となったが望んだ封賞が得られず、尚書令袁粲に不満の書を送ったが取り上げられなかった。沈攸之の乱の際も高帝の命で尚書符を荊州へ発する文書を作ったが、また不満を抱いた。のち武昌太守となったが江外に赴くのを望まず、武帝に「古人は『寧ろ建鄴の水を飲むとも武昌の魚は食べぬ』と言った、私も年老いてなお建鄴で死にたい」と述べ、餘杭令に転じた。明帝の呉興太守時代、秋胡詩を作り譏刺の言葉があったため罪に問われ殺された。当時、会稽の孔広・孔逭も才学で知られた。孔広、字は淹源、容儀に優れ弁舌に長け、王儉・張緒に称賛され、儉は「広が来ると文書仕事も放り出してしまう、来なくてもよい」と言いつつ来れば手放せなかったといい、張緒はたびたび車を仕立てて訪ね「広は私を軽薄にする」と嘆いたという。祭酒から揚州中従事に至った。孔逭は剛直で才藻に富み東都賦を著し当代に称賛された。陳郡の謝瀹が若い頃会稽から帰る父の荘に「東で誰に会ったか」と問われ「孔逭に会った」と答えるほど重んじられた。三呉決録を著したが伝わらず、衛軍武陵王東曹掾で没した。当時さらに虞通之・虞龢・司馬憲・袁仲明・孫詵らも学識で名を並べた。通之と龢は会稽余姚の人。通之は易を語ることに長け歩兵校尉に至り、龢は中書郎・廷尉に至り貧しい家で書を漏水から守るため被を書に掛け自分は濡れたという故事があり高鳳になぞらえられた。司馬憲、字は景思、河内温の人、東観に待詔し学士から殿中郎、弁才と地位を兼ね魏への使者として北で称された。袁仲明は陳郡の人で晋史編纂の途中で没した。仲明はかつて劉融・卞鑠とともに袁粲に評価され常に座席を共にしたが、粲が丹陽尹となり主簿に鑠を選んだ。鑠は詩賦を好み世人を刺す議論が多く、事件で巴州に流された。孫詵、字は休群、太原中都の人、文を愛し泉石を好み御史中丞で没した。