南史卷七十 列傳第六十 范述曾

永嘉太守の清政

  • 范述曾、字は子玄、一字頴彦、呉郡銭唐の人。幼くして学を好み余杭の呂道恵に五経を学び章句をほぼ通じた。道恵は「この子は必ず王者の師となろう」と評した。斉の文恵太子・竟陵文宣王の幼少期、高帝が述曾を師友に招き、宋晋熙王国侍郎から起家し、斉初は南郡王国郎中令、太子歩兵校尉・帯開陽令に至った。述曾は率直な性格で官にあっても諫争を多く行い、太子は用いなかったが咎めもしなかった。竟陵王は彼を深く評価し「周舎」(周王朝の賢臣に擬した呼称)と称し、太子左衛率沈約も彼を汲黯になぞらえた。
  • 斉明帝の即位で永嘉太守となり、清廉な政治で威猛を尚ばず民に慕われた。管内の横陽県は山谷が険しく逃亡者の巣窟であったが、歴代の太守は討伐に苦しんだ。述曾は着任すると恩信を示し、凶党は子を背負って投降し戸籍に編入された者は200余家に上り、商旅の往来が再開し民は安業した。清廉さを貫き贈り物を受けなかった。明帝は詔で称賛し游撃将軍として召還された。郡が餞別に贈った銭20余万を一切受け取らず、白桐木の火籠十余枚のみを受け取った。東昏侯(廃帝)の時代に中散大夫を拝して郷里に帰り、梁武帝即位の際には自ら軽装で参内したが辞退して帰り、武帝は詔で称賛し太中大夫とした。述曾は生涯の俸禄をすべて人に分け与え、老年には壁だけ残る貧しさになった。天監8年(509年)に没した。易の文言に注し、雑詩賦数十篇を著した。この後、呉興の丘師施もまた清廉で知られ、臨安県を離任する際わずか20籠の簿書があるだけでいずれも倉庫の帳簿であり、当時、述曾と並び称された。台郎に至った。