経歴
- 申怙、字は公休、魏郡魏の人。曽祖申鍾は石季龍の司徒となった。宋武帝が広固を平定した際、申怙の父宣と宣の従兄申永はいずれも晋に帰り、才幹を認められた。武帝の即位後、太中大夫を拝命。宣は元嘉初年に兗青二州刺史を歴任した。申怙の兄謨は朱脩之とともに滑台を守ったが、魏に陥落させられ捕虜となり、のち帰還して竟陵太守となった。
- 申怙は初め驃騎劉道憐の長兼行参軍となり、宋の受命後は東宮殿中将軍となって台の直省に10年勤め休暇を求めず、下邳・北海二郡太守を歴任して政績を挙げ、さらに北譙・梁二郡太守となった。郡境は任榛に接し賊の侵掠が絶えなかったが、申怙は賊の来襲を密かに察知し要害に伏兵を置いて悉く捕らえ滅ぼした。
- 元嘉12年(435年)、督魯東平済北三郡諸軍事・太山太守に転じ、威と恵をともに著し官民に喜ばれた。21年(444年)冀州の鎮が歴下に移ると冀州刺史となり督を加えられ、翌年済南太守を加えられた。孝武帝の即位で青州刺史、さらに督斉地を加えられたが、連年の戦で百姓は疲弊していた。申怙は辺境を防禦しつつ農桑を勧め、2、3年で実りを取り戻した。性は清廉節約で、州郡を歴任しても妻子は飢寒を免れず、世の人はこれを称えた。のち豫州刺史を拝したが病により召還され途上で没し、死の日、家に遺財はなかった。
- 子の寔は南譙太守。兄謨の子元嗣は海陵太守。元嗣の弟謙は臨川内史。申永の子坦は孝建初年(454年)太子右衛率・徐州刺史となった。大明元年(457年)、魏が兗州を攻めると、孝武帝は太子左衛率薛安都・東陽太守沈法系を派遣して防がせたが魏軍は既に退いていた。坦は「任榛の亡命者らが辺境を繰り返し犯している、今軍を出したのに功がないのは残念、この機に討伐すべき」と建議し許可されたが、亡命者は既に情報を得て村ごと逃走していた。薛安都・沈法系は白衣(庶人身分)に落とされ職に留められたが、坦は市で処刑された。群臣が助命を求めたが叶わず、始興公沈慶之は市に入り坦を抱いて痛哭し「あなたは無罪なのに朝廷に誅殺される、私もじきに市に入ることになるだろう」と言った。市の官吏がこれを上奏し、皇帝は坦の命を助けて尚方に繋いだが、まもなく赦されて驍騎将軍に復し、病で没した。
- 坦の子令孫は明帝の時徐州刺史となり薛安都討伐に赴いたが淮陽まで至ったところで安都に投降した。弟の闡はその時済陰太守として睢陵城を守り安都に従わなかった。安都は攻めても落とせなかったが、令孫が到着して闡を説得すると闡は降伏し、その後殺された。令孫もまた殺された。