序―循吏伝の趣旨
- 前漢の宣帝は「政を平らかにし訴訟を治めるのは良二千石(郡太守)にほかならない」と言い、今の郡守は昔の諸侯に当たるとされる。長吏の職は「親人」と号され、徳による教化はここから始まる。
- 宋の武帝は匹夫より起こり民の艱難を知っていたが、即位後は軍事外征に追われ内政に手が回らなかった。それでも倹約を旨とし、私謁や華美な装飾を退けたため、軍を動かしても国内は乱れなかった。
- 文帝は幼くして寛仁、即位後も徭賦を歳賦にとどめ、守宰の任期を六年とし、久しく異動させなかったため民に安定が生まれ、市のある邑では歌舞が絶えず、宋の最盛期とされた。しかし元嘉27年(450年)の北伐で国力を傾け尽くし、以後孝建に至るまで戦乱が続き、この繁栄は衰えた。
- 晋代の諸帝は宮殿を質素にとどめたが、宋の孝武帝は湘宮寺など奢侈な建築を興し、財を尽くして民を苦しめた。明帝(劉彧)も同様に浮侈を極め、守宰の異動が頻繁で治績が上がらなかった。
- 斉の高帝は輔政の初め、山陰令として治績のあった傅琰を益州刺史に抜擢するなど奢侈を改め質素に返り、獄訟の多い山陰には建元3年(481年)獄丞を新設した。永明年間(斉武帝)は威厳と裁断をもって治め、十数年間盗賊もなく都邑は繁栄した。
- 斉明帝は吏事に通じ法を曲げなかったが、魏軍の侵攻や政治の混乱により賦役が乱れ、守宰の多くが権門に頼って貪虐を働き、民は苦しんだ。
- 梁の武帝は在野の頃から民の苦しみを知り、東昏侯(廃帝)の雑税をすべて廃し、天監元年(502年)には人頭税を布に換算する制を始め、自らも質素な衣食に甘んじた。清廉な官吏を選んで登用し、山陰令丘仲孚を長沙内史に、武康令何逺を宣城太守に抜擢するなど、県令から郡太守への昇進の道を開いた。
- 本篇では歴代の循吏伝の要を集め、以下に記す。
経歴と裁断
- 吉翰、字は休文、馮翊池陽の人。龍驤將軍劉道憐の参軍となり、道憐の北征広固に従って建城縣五等侯に封ぜられた。宋武帝の中軍軍事、臨淮太守を経て、道憐の驃騎中兵参軍・従事中郎として10余年将佐を務め、清廉謹直で武帝に重んじられた。
- 元嘉年間、梁南秦二州刺史を歴任し益州刺史に転じて督を加えられ、方伯の体をよく得たと評された。累進して徐州刺史・監徐兗二州豫州梁郡諸軍事となった。
- ある死罪の囚人について、典籤(属吏)が助命を望み、八関斎の折に文書を提出した。吉翰はこれを見て翌日また持ってくるよう命じたが、翌朝典籤は恐れて出頭しなかった。呼び出して昨日の文書を見返し、「お前は自分がこの囚人を助けたいのだろう、罪は重く全免はできぬが、恩を施したいなら代わりにお前がその罪を負え」と命じて典籤を捕らえ処刑し、囚人の命は助けた。この裁断により下々は畏服し法を犯す者がなくなった。官にあって没した。