南史卷六十八 列傳第五十八 沈君理

出自と陳武帝への仕官

  • 沈君理は字を仲倫といい、呉興の人。祖父の僧畟は梁の左戸尚書、父の巡は元帝の時に少府卿を務め、魏が荆州を平定すると梁の宣帝から金紫光禄大夫を授けられた。
  • 君理は風儀美しく、広く学んで識見があった。陳武帝が南徐州に鎮していた際、巡は君理を遣わして謁見させ、深く器重されて会稽長公主を娶ることとなった。帝の受禅後は駙馬都尉を拝命し、永安亭侯に封じられ呉郡太守となった。兵乱が収まらぬ中、君理は士卒を集め武具を整え、その幹練さで称えられた。

太建年間の栄達

  • 文帝嗣位後、左戸尚書に累遷し、天嘉六年に東陽太守、天康元年には父の喪により去職した。荆州へ柩を迎えに行くことを自ら願い出たが、重臣が国境を出るのは難しいとの朝議により、長兄の君嚴が代わって赴いた。柩の帰還・埋葬の際、父の巡には侍中領軍將軍を贈られ諡は敬とされた。
  • 太建中、太子詹事・吏部尚書を歴任し、宣帝が君理の娘を皇太子妃としたことで望蔡縣侯に封じられ、侍中・尚書右僕射に至って卒した。翊左將軍・開府儀同三司を贈られ諡は貞憲。

沈君高・沈君公――附伝

  • 弟の君高は字を季高といい、剛直で吏才があり、衛尉卿・平越中郎將都督廣州刺史に至り人望を得たまま卒した。諡は祁。
  • 弟の君公は梁元帝の敗亡後、常に江陵にあり、禎明中に蕭瓛・蕭巖とともに隋に叛いて陳に帰属した。後主は太子詹事に抜擢し、博学で才弁に優れ談論を善くしたため深く器重されたが、陳滅亡後は隋に入り、文帝は叛逆の経歴により建康で斬った。
  • 君理の弟の叔邁も方正で幹局があり、通直散騎常侍として東宮に侍った。