南史卷六十八 列傳第五十八 劉師知

出自と受禅の儀

  • 劉師知は沛国相の人。家柄は代々の名族で、祖父の奚之は斉の淮南太守として善政で知られ、父の景彦は梁の司農卿であった。師知は本名を師智といったが敬帝の諱に触れるため改名した。学を好み実務の才があり、書伝に広く通じ文筆に優れ儀礼にも詳しく、台閣の故事に精通していた。
  • 紹泰初、陳武帝が入朝して輔政すると師知は中書舍人として詔誥を掌り、武帝が丞相となり九錫を加えられ、また受禅に至るまでの儀注の多くを師知が定めた。

梁敬帝廃立

  • 梁の敬帝が内殿にいた際、師知は常にその側に侍った。禅譲を迫って害を加えようとした時、師知が帝を欺いて外に出させようとすると、帝は気付いて牀を回って逃げながら「師知が我を売った。陳霸先が反したのだ。我はもとより天子となる気などなかった、なぜ殺そうとするのか」と叫んだ。師知は帝の衣を捕らえ、行事の者が刃を加えた。師知が陳武帝に「事は終わりました」と報告すると、武帝は「卿は我に忠実である、以後はもうするな」と言い、師知は答えなかった。
  • 武帝受命後も舍人を兼ね、性格は疎放で他人と摩擦を起こすことが多かったが、官位は上がらずとも重んじられ、進言には有益なものが多かった。

成服の礼制論争と最期

  • 武帝崩御から六日目の成服の礼で、大行皇帝の霊座に侍る俠御の衣服の吉凶をめぐり論争が起きた。博士沈文阿は吉服を主張したが、師知は「成服とはもともと喪礼を備えるものである」とし、梁の昭明太子薨去の際の先例に基づき六日成服では俠靈座は衰絰を服すべきと主張した。中書舍人の蔡景歴・江徳藻・謝岐らも師知に同調した。両論の対立から左丞徐陵に決断を求めたところ、徐陵は山陵鹵簿の吉部での前例をあげ、俠御だけが衰絰を著るのは不合理だと論じた。謝岐はさらに折衷し「山陵の儀と成服とは別物であり、成服の日には胥吏から王公まで皆衰絰を服すべきだ」と論じ、両論をまとめて上奏した結果、帝は師知の議に従った。
  • 鴻臚卿舍人に遷ったが、天嘉元年事に坐して免官となり、まもなく中書舍人に復し詔誥を掌った。天康元年、文帝の病の際、師知は尚書僕射到仲挙らとともに医薬に侍り、帝崩御の遺詔を受けた。宣帝が輔政に入ると師知は仲挙らとともに舍人殷不佞を遣わして矯詔で宣帝を東府に戻そうとしたが、事が発覚し北獄で賜死された。文帝の勅により師知が撰した起居注は、永定二年秋から天嘉元年に至る十巻であった。