樊毅
- 樊毅は字を智烈といい、南陽湖陽の人である。祖の方興は梁の散騎常侍・司州刺史・魚復県侯、父の文熾は梁の散騎常侍・東益州刺史・新蔡県侯。毅は将門に生まれ若くして武を習い騎射に優れた。侯景の乱では部曲を率い叔父の文皎の台城救援に従い、文皎は青溪の戦いで戦死。毅は江陵に赴き王僧辯の河東王蕭誉討伐に従軍、功により右中郎将を授かり兄の俊に代わって梁興太守・領三州游軍となった。
- 宜豊侯蕭循の陸納討伐に従い湘州で軍を進め巴陵に陣を布いたが陣構えが未完のうちに納の潜軍が夜襲し軍中は動揺したが、毅は独り左右数十人と共に営門で力戦し十余の首級をあげ鼓を鳴らして号令をかけ動揺を鎮めた。功により夷道県伯に封じられ天門太守に累進、爵を侯に進めた。西魏が江陵を囲むと毅は郡兵を率いて救援に赴いたが、魏が江陵を陥とし毅は後梁に捕らえられた。久しくして脱出し帰還。
- 陳武帝受禅後、毅は弟の猛とともに挙兵し王琳に呼応したが琳は敗れて斉に奔った。太尉侯瑱の招きに応じ毅は子弟部曲を率いて帰順、太建初、豊州刺史・高昌県侯に封じられ左衛将軍に召された。五年、衆軍北伐で毅は広陵楚子城を攻め陥とし斉軍を撃退、呂梁の敗軍後、詔で毅は大都督となり淮を渡って清口に築城し周と対峙したが霖雨で城が崩れ全軍を収めて撤退、まもなく中領軍に遷った。十一年、周将梁士彦が夀陽を包囲すると詔で毅は都督北討前軍事、十三年、荆州刺史。後主即位後、逍遙郡公に改封され侍中・護軍将軍に召された。
- 隋軍渡江の際、毅は僕射袁憲に「京口・采石はともに要地だ。それぞれに精鋭数千・金翅二百を配し、都下の江中で防衛にあたるべきだ。さもなければ大事に至る」と語り諸将もこれに賛同したが、施文慶らが隋兵の情報を握りつぶしたため毅の策は実行されなかった。台城陥落後、慣例により関中(隋)に入り卒した。
猛
- 毅の弟の猛は字を智武といい、若くして自由奔放で幹略があり、長じては弓馬に優れ胆気は人並外れた。青溪の戦いでは猛が朝から晩まで侯景軍と短兵で交戦し多くを殺傷した。台城陥落後は兄毅の西上に従い、梁の南安侯蕭方矩が湘州刺史となると猛は司馬となった。武陵王蕭紀が漢江から東下して挙兵すると方矩は猛を都督陸法和の軍に従わせて拒がせ、猛は自ら紀父子三人を捕らえ艫の中で斬りその船艦器械をすべて接収した。功により安山県伯に封じられ、梁益の地を進み撫定して司州刺史・侯に進爵した。
- 陳の永定元年、周文育らが沌口で敗れ王琳に捕らえられると、琳は勝ちに乗じて南中諸郡を狙い猛と李孝欽らに豫章を攻めさせ周廸に迫らせたが、軍は敗れ猛は廸に捕らえられ、まもなく脱出し琳に戻ったが琳は敗れ帰順した。天嘉二年、永陽太守に任じられ、太建中、軍功により富川県侯に封じられ散騎常侍・荆州刺史を歴任、左衛将軍に召された。後主即位後、南豫州刺史。
- 隋将韓擒虎の渡江の際、猛は都に留まり第六子の巡が州事を代行していたが、擒虎が攻め陥とし巡と家族はすべて捕らえられた。当時猛は左衛将軍蒋元遜とともに青龍船八十艘の水軍を率い白下で隋の六合の兵に対していたが、後主は猛の妻子が隋に捕らえられていることから異心を疑い任忠に代えようとし、蕭摩訶に喩させたが猛は不快であったため、摩訶がこれを後主に伝えると後主はその意を傷つけることを憂い取りやめた。禎明三年、隋に入った。
史論
- 論じていう。梁氏はすでに衰運に至り天下は乱れたが、陳武帝は旗を取って乱を掃い基礎を築いた。胡穎・徐度・杜稜・周鉄虎・程霊洗らは、あるいは風雲に感応して駆馳の日を尽くし、あるいは降附から抜擢され興王の始めを助け、みな清廟に配享された。決して偶然ではあるまい。沈恪の身の処し方は不義を踏まず、子隆の持身の節度は人に仕える道に欠けることがなかった、まことに仁というべきである。
- 銭道戢・駱文牙・孫瑒・徐世譜・周敷・荀朗・周炅・魯悉達・広達・蕭摩訶・任忠・樊毅らはそれぞれの道は異なるが、当代に用いられ功名を自立させたのはいずれも時勢によるものである。金陵が覆没したのは天数によるものであろうが、任忠の興亡における義理には欠けるところがなかったとは言えまい。蕭摩訶・魯氏の行いとはその日を同じくせず、二心を抱いて二君に仕えながら信を求めるのは難しいことであった。首領を全うできたのも幸いというべきである。