南史卷六十七 列傳第五十七 周敷

周敷

  • 周敷は字を仲逺といい、臨川の人である。郡の豪族で、敷は容貌が小柄で衣にも堪えないように見えたが胆力は人並外れ、豪侠で財を軽んじ士を重んじたため郷党の少年たちに慕われた。侯景の乱で郷人の周続が徒を集め賊討伐にあたり、梁の内史始興蕃王蕭毅は郡を続に譲ったが、続の部下に毅を侵略しようとする者がいると敷が保護し、自ら部下を率いて豫章まで護送した。当時梁の観寧侯蕭永・長楽侯蕭基・豊城侯蕭泰が難を避けて流寓しており敷の信義を聞いて頼ってきたので、危懼を憐れみ屈体して厚くもてなし西上させた。
  • まもなく周続の部下が権力を争って続を殺し周廸に降った。廸はもとより名族の出でなく人望も薄かったため、族望のある敷との関係を深く求め、敷は廸に仕え非常に恭謙であったため廸は大いに頼った。廸が臨川の工塘に拠ると敷は臨川の旧郡に鎮した。侯景平定後、梁元帝は敷に寧州刺史・西豊県侯を授けた。陳武帝受禅後、王琳が上流を拠点とし、余孝頃が琳党の李孝欽らとともに周廸を包囲した際、敷は廸を助け廸は孝欽らを捕らえ、敷の功が最も多かった。熊曇朗が周文育を殺し豫章に拠って敷を襲うと敷は大破し、曇朗は巴山郡に逃げた。敷は周廸・黄法氍らとともに進んで曇朗を屠った。
  • 王琳平定後、散騎常侍・豫章太守を授けられた。当時南江の酋帥たちが皆巣窟に恋々としていた中、敷だけがいち早く入朝、天嘉二年、闕に詣で安西将軍に進号し豫章鎮に戻された。周廸は敷がもと自分の下位にありながら顕達したことに不満を抱き挙兵、弟の方興に敷を襲わせたが敷は大破した。都督呉明徹に従い廸を攻め破り方興を捕らえ、都督南豫州刺史に再遷。廸は残兵を集め東興を襲ったため文帝は都督章昭達に廸征討を命じ、敷もこれに従い定川県で廸と対峙した。廸は「入朝して盟を立てたい」と偽り、敷はこれを許したが、壇に登ったところで廸に殺害された。諡は脱。子の智安が太僕卿にまで至った。