南史卷六十七 列傳第五十七 孫瑒

呉郡呉の人、字は徳璉。梁に仕え邵陵王中兵参軍事などを経て陳に帰順し、郢州・荆州など要地の刺史を歴任した文武兼備の官僚。学芸を愛し賓客を厚遇する開放的な性格でも知られ、後主の代には尚書職を歴任して卒した。

年表(5件)
  • 天嘉元年湘州刺史・定襄県侯を授けられるも入朝を望み呉郡太守に転じる
  • 太建四年都督荆州刺史となり公安に鎮する
  • 太建六年公事により荆州刺史を免官される
  • 太建十二年疆場での不正な交通に連座して罪に問われる
  • 禎明元年五兵尚書・侍中のまま卒官する

孫瑒

  • 孫瑒は字を徳璉といい、呉郡呉の人である。父の修道は梁の中散大夫で清廉で知られた。瑒は若くして自由奔放で謀略に長け経史を博渉、書翰にも優れ、梁に仕え邵陵王中兵参軍事となった。太清の乱では假節・宣猛将軍・軍主を授けられた。王僧辯の侯景討伐で王琳が前軍となり、琳と瑒は姻戚のため表を上げて宜都太守に推挙され、のち軍功により富陽侯に封じられた。敬帝即位後、巴州刺史に累進した。
  • 陳武帝受禅後、王琳が梁の永嘉王蕭荘を郢州に立てると、瑒は少府卿に召されたが都督郢州刺史・総留府之任に転じた。周が大将軍史寧を遣わし虚を突いて攻めた際、瑒の兵は千人に満たなかったが城を守り抜き、周軍は陥とせなかった。王琳が勝利を重ねて進むと周軍は撤退し、瑒はこうして中流の地をすべて領有した後、使者を送り陳に帰順を表明した。天嘉元年、湘州刺史・定襄県侯を授けられたが、瑒は不安を覚え入朝を強く願い出、侍中・領軍将軍に召されたが未拝の間、文帝は「昔、朱買臣は本郡の官を願った。あなたにもその意があるか」と言い、呉郡太守に改任し鼓吹一部を賜った。任期満了後、散騎常侍・中護軍に召された。
  • 留異が東陽で反乱すると詔で瑒は舟師を督し討伐に赴き平定後、鎮右将軍に遷り、まもなく建安太守に出た。太建四年、都督荆州刺史となり公安に鎮し、隣境から憚られたが六年、公事で免官。呉明徹が呂梁で敗れると詔で緣江水陸諸軍事の都督を授けられ、まもなく都督郢州刺史となった。十二年、疆場での不正な交通に連座して罪に問われたが、後主嗣位後、爵邑を復し度支尚書・侍中・祠部尚書を歴任、後主はしばしばその邸を訪れ功徳を賦して称えた。五兵尚書・領左軍将軍・侍中を兼ねたまま、禎明元年、卒官した。諡は桓。
  • 瑒は親に孝を尽くし諸弟にも篤く、通泰な性格で財を親友に分け与えた一方、家庭では奢侈に流れ庭園には林泉の趣を尽くし歌鐘・舞女は当代に類がなかった。賓客が門に溢れ車馬が絶えず、郢州鎮駐時には十数隻の船を合わせて大船とし、亭池を築き荷を植え、良辰美景には賓僚を集め長江に舟を浮かべ酒宴を開いたのも一時の盛観であった。山斎で講筵を設け玄儒の士を集め、冬夏の資奉は学者に称えられた。処世は率直で名位を誇らなかった。
  • 興皇寺の朗法師は釈典に通じ、瑒はしばしばその講筵に赴き議論を交わし、法侶は皆心服した。巧思にも優れ起部尚書として軍国の器械を多く創案し、男女の婚姻には皆素封の家を選んだ。卒すると尚書令江総が銘誌を撰し、後主も銘の後に四十字を題し左戸尚書蔡徴に邸へ赴かせ勅を宣して刻ませた。その詞は「秋風は竹を動かし烟水は波を驚かす 幾人の樵径ぞ何処の山阿 今の日月は宿昔の綺羅 天長く路遠く地久しく霊多し 功臣未だ勒せず この意如何せん」といい、当時の人々はこれを栄誉とした。瑒には二十一人の子があり、第二子の訓は名高く高唐太守となり陳滅亡後、隋に入った。