杜稜
- 杜稜は字を雄盛といい、呉郡銭唐の人である。若くして落魄していて世に知られなかったが、書伝に通じ嶺南で梁の広州刺史新渝侯蕭映に仕え、映が卒すると陳武帝に従い蔡路養・李遷仕の平定に功があった。梁元帝の承制により石州刺史・上洛県侯を授かった。
- 侯景平定後、武帝が朱方に鎮すると稜は義興・琅邪二郡を監督した。武帝が王僧辯誅殺を謀り稜と侯安都に諮ると稜はこれに難色を示し、武帝は事が漏れることを恐れて手巾で稜を絞め昏倒させ別室に閉じ込め、軍を発した後にともに行動させた。僧辯平定後、武帝が東征し杜龕らを討つと稜は侯安都とともに都の留守を守り、徐嗣徽・任約が斉軍を引き入れ台城を攻めると安都と稜は共に抵抗し帯を解く間もなかった。賊平定後、功により右衛将軍・丹陽尹に任じられた。
- 永定元年、侍中・中領軍。武帝崩御時、文帝が南皖にあり内には嫡嗣がなく外には強敵があった。侯瑱・侯安都・徐度らは皆軍中にあり、朝廷の宿将で都にあったのは稜のみで、禁兵を独り取り仕切っていた。稜は蔡景歴らと秘して喪を発せず文帝を迎えた。文帝即位後、領軍将軍に遷り建立の功により永城県侯に改封、丹陽尹となった。廃帝即位後、特進・侍中を加えられ、光大元年、丹陽尹を解かれ佐史を置き扶を賜った。
- 太建元年、呉興太守に出、二年、侍中に召され特進・護軍将軍を加えられ、三年、公事により侍中・護軍を免ぜられ、四年、再び侍中・右光禄大夫・将軍・佐史・扶をすべて復した。稜は三帝に仕え恩寵を受け続けたが晩年は征役に加わらず都で悠々と過ごし、まもなく官にて卒した。開府儀同三司を贈られ諡は成。武帝の廟庭に配享され、子の安世が嗣いだ。