南史卷六十六 列傳第五十六 章昭達

章昭達は字を伯通といい、呉興武康の人。侯景の乱の負傷を機に陳文帝と縁を結んだ武将で、王琳・留異・陳寶応・歐陽紇ら反乱討伐で数々の戦功を挙げ、司空にまで進んだ。部下を厚遇し将士に慕われたことでも知られる。

年表(5件)
  • 天嘉元年欣楽県侯に追封される
  • 天嘉二年都督郢州刺史となり周廸の反乱を鎮圧する
  • 天嘉四年陳寶応・留異を討伐し閩中を平定する
  • 太建二年江陵親征で周軍の糧道を断ち安蜀城を降す
  • 太建三年軍中で病死し、大将軍を追贈される

章昭達

  • 章昭達は字を伯通といい、呉興武康の人である。倜儻(自由奔放)で財を軽んじ気概を重んじた。若い頃、人相見に「あなたの容貌は良いが、少し欠けるところがあればさらに富貴になる」と言われた。梁の大同中、東宮直後にあった昭達は酔って落馬し鬢角を少し傷つけたが喜ぶと、人相見は「まだだ」と言った。
  • 侯景の乱で昭達は郷人を率い台城救援に赴き流矢に当たり片目を失明したが、人相見はこれを見て「これで相が良くなった。まもなく富貴になろう」と言った。台城陥落後、郷里に戻り陳文帝と交遊し君臣の縁を結んだ。侯景平定後、文帝が呉興太守となると昭達は自ら策を練り謁見に赴き、文帝は喜んで将帥に任じ寵は他を超えた。
  • 陳武帝が王僧辯討伐を謀ると文帝は長城に戻り兵を招集し杜龕に備え、しばしば昭達を京口に遣わし計画を伝えさせた。僧辯誅殺後、龕がその将杜泰を長城に攻め寄せると昭達は文帝に従って呉興に進軍しこれを討伐、龕平定後は会稽の張彪討伐にも従いこれを破った。功を重ね定州刺史となった。
  • 留異が東陽を拠点としていた頃、武帝はこれを憂い昭達を長山令に任じその心腹に置いた。天嘉元年、長城の功により欣楽県侯に追封され、侯安都の王琳討伐に従軍、昭達は平虜大艦で中流を進み先鋒が拍を放って敵艦に命中させ、王琳を平定した際は策勲第一とされた。二年、都督郢州刺史。周廸が臨川に拠り反乱すると詔で昭達が便道より討伐し廸は敗走、護軍将軍に召され邵武県侯に改封された。
  • 四年、陳寶応が周廸を受け入れ臨川を侵すと、再び昭達が都督として討伐、廸は逃げたため昭達は嶺を越えて陳寶応を討ったが緒戦は不利で、上流に筏を組み拍を設けて水柵を破壊し歩軍を出して攻めた。折しも文帝が海路から余孝頃を出させ合流し戦局を制して閩中を平定、留異・陳寶応を捕らえた。功により鎮軍将軍・開府儀同三司を授けられた。
  • かつて文帝が昭達が台鉉(宰相位)に昇る夢を見て翌朝告げたが、その後の侍宴で酒がたけなわの頃、文帝は「その夢を覚えているか。何をもって夢に応えるか」と尋ねると、昭達は「犬馬の労を効し臣節を尽くすのみで、他に報いる術はありません」と答えた。都督江州刺史に出た。廃帝即位後、邵陵郡公に改封。華晈の反乱では移文がすべて昭達の名を借りて招かれたが、昭達は使者をことごとく捕らえて都へ送った。任期満了で中撫大将軍に召され、宣帝即位後、車騎大将軍に進んだが帰朝が遅延したことで弾劾され車騎将軍に降号された。
  • 欧陽紇が嶺南で反乱すると詔で昭達が都督として討伐、紇は昭達急襲を聞いて洭口に出て沙石を竹籠に詰め水柵の外に置き舟艦を阻もうとしたが、昭達は上流から艦を装備し拍を作って柵に臨み、人に刀を銜えて水中を潜行させ竹籠の篾を解かせ、大艦を放って突撃し紇を大破し捕らえた。広州平定後、司空に進んだ。
  • 太建二年、江陵を征し、梁の明帝と周軍が青泥に大量の舟艦を蓄えていたのを、昭達は偏将の銭道戢・程文季に軽舟でこれを焼かせた。周はさらに峡口の南岸に安蜀城という塁を築き江上に大縄を横に渡し葦を編んで橋とし糧を運んでいたが、昭達は軍士に長戟を作らせ楼船に立てその索を仰ぎ見て斬らせ、索が切れて糧道が断たれると兵を放ってその城を攻め降伏させた。三年、軍中で病死し大将軍を贈られた。
  • 昭達は性格が厳格で、出征のたびに昼夜兼行で進んだが、勝利すれば功を将帥に譲り、厨房や飲食も部下と共にし将士に慕われた。飲食のたびに女伎の雑楽を盛大に設け羌胡の音楽・姿容を揃え、敵前でもこれを廃さなかった。四年、文帝の廟庭に配享され、子の大寶が邵陵郡公を襲封し豊州刺史となったが、州で貪欲放縦の政をなし百姓の怨みを買い、後主が太僕卿李暈に代えようとすると暈を襲殺して反乱を起こし捕らえられ、朱雀航で梟首、三族を夷された。