南史卷六十二 列傳第五十二 鮑泉

生涯

  • 鮑泉、字は潤岳、東海の人。父幾(字は景玄)は家貧で吏部尚書王亮に禄を求め、亮が舂陵令に推挙、後に明山賓の薦めで太常丞(外兄傅昭が太常のため服喪規定により避け尚書郎に転任)、湘東王諮議参軍で卒した。泉は美しい鬚髯、身長八尺、機敏で史伝に通じ文筆にも長けた。若くして元帝(湘東王)に仕え国常侍となり「私の文才を超える者はいない」と評された。通直侍郎として豪奢な車馬で出歩き国子祭酒王承に無礼を疑われ揶揄された逸話があり、都下の若者の間で「鮑通直はいったい何者だ」と流行語になった。
  • 元帝承制後、信州刺史。方等の敗死後、元帝が怒り泉と王僧辯に討伐を命じるが、泉は「事は雪を溶かすように容易」と安請け合いし、僧辯の「江東に武才少なく精兵一万なくば往くべからず」との慎重論に取り合わなかったため長沙攻略が長引き、元帝は泉の二十の罪を数え上げて叱責する書を送った(比喩:「面は冠玉の如くまた木偶を疑う、鬚は蝟毛に似て徒に喙を労するのみ」)。獄から出させて起用し直し、王僧辯が代わって都督となり泉を捕縛した(舎人羅重歓に三百の兵を率いさせ、泉が「王僧辯が助けに来た」と喜んだところを捕らえた逸話。泉は顔色を変えず「稽緩の罪は甘受するが後人が私の憒憒を思うのを恐れる」と応じた)。
  • 泉が謝罪文を上げ元帝が任を復し、僧辯らと共に郢州の邵陵王を攻略。郢州平定後、元帝の世子方諸が刺史となり泉は長史・行州府事となったが、方諸は泉を軽んじ戯れの対象にした(泉を馬に見立てて背に乗る悪ふざけ)。方諸・泉ともに軍政を怠り、侯景の将宋子仙・任約の急襲を受け防備を怠ったため城は陥落、方諸・泉は捕らえられ景のもとへ送られた。景が王僧辯を巴陵で攻めるが敗れると、泉は江夏で殺害され屍は黄鶴磯に沈められた(泉がかつて朱衣で水上を歩く夢を見ており、死の際、全身血にまみれて江に沈んだのはその夢の通りだったという)。泉は儀礼に精通し新儀三十巻を撰した。
  • 当時、鮑行卿という博学大才で知られた人物がいた。後軍臨川王録事・中書舎人を兼ね、歩兵校尉に転任、玉璧銘を武帝に上呈し韻語を好まれ褒賞を受けた(歩兵校尉拝命の際「舎人になっても貧を免れないが、五校を得れば実に大校」と自嘲した逸話がある)。文集二十巻、皇室儀十三巻、乘輿龍飛記二巻を撰した。
  • 行卿の弟客卿は南康太守。三子(検・正・至)は才芸で知られ、皆湘東王の五佐となった(正の交遊が盛んで「無処不逢烏噪、無処不逢鮑」と評された)。正は湘東王に用いられず退官を願い出て恨まれ、建鄴陥落時、尚書外兵郎の任にあったが病で動けず賊に紛れた死体と共に焼かれた。王(湘東王元帝)はこれを聞き「忠は紀信に非ず利は象歯に非ず、焚かれ棄てられ、これによって湘東王の不仁を知る」と評した。検は湘東鎮西府中記室として蜀への使者となり武陵王に屈せず殺害された。

史論

  • 夏侯勝が「士は経術に明るくないことを患うべし、経術に明るければ青紫(高位)を得ることは地に落ちた芥を拾うようなものだ」と言ったが、賀瑒・賀琛・朱异・司馬褧はまさにこれを体現した人物である。しかし异はついに寵愛に阿り、権を握りながら道を以て時を佐けることができず、いたずらに機嫌をとって容れられることを求め、ついに寇を招いて国を敗った、実に异の招いた禍である。禍難が明らかになった後もその罪を明らかにされず、身が死してなお寵贈は殊に過分であり、罰も加えられなかったのは行き過ぎというべきだろう。太清の乱はまさに当然の帰結であった。顧協の清介は古人の跡を追うに足り、徐摛の貞正は「仁者は勇あり」との言葉の通りである。孝穆(徐陵)は聡明特達、王朝の興隆に際し議論を尽くし忠直であった。泉はもとより文房の士であり、常に武事を任されたのは材にふさわしい任ではなく、その任に堪えるのは難しかったのであろう。