生涯
- 徐摛、字は士秀(一字は士繢)、東海郯の人。祖父憑道は宋海陵太守、父超之は梁天監初の員外散騎常侍。摛は幼くして学を好み経史に通じ、新奇な文体を好んで旧体に拘らなかった。晋安王綱が石頭に出鎮する際、武帝が周捨に「文学に優れ徳行もある人物」を求め、捨が「外弟徐摛は容貌は貧弱だが」と薦めると、武帝は「必ず王仲宣(王粲)のような才があろう、容貌にはこだわらぬ」と侍読に任じた。大通初、王(綱)の北伐に寧蛮府長史として従軍し教命・軍書の多くを起草。王が皇太子となると家令兼管記に転じ、摛の文体が東宮に広まり「宮体」の呼称の起源となった。
- 武帝が新奇な文体を怒って摛を召責したが応対の明敏さに感心し許した(五経・歴代史・百家雑記・釈教まで縦横に論じ武帝を驚嘆させた)。以後寵遇は日々厚くなったが、領軍朱异がこれを妬み武帝に「摛は老いて泉石を愛す」と讒言、武帝は摛の望郡を汲んで新安太守に任じた。清静な政治・礼義教化・農桑奨励で一年で風俗が改まり、中庶子に還任した。臨城公の婚礼の礼制論議で摛が古礼を引いて簡略化を進言し簡文帝が採用した。太子左衛率。侯景の台城陥落時、簡文帝の側近が逃げ散る中、摛独り動じず侯景に「礼を以て見えよ」と諭し、景はその威に折れて拝礼した(以後景は摛を憚った)。
- 簡文帝即位後、左衛将軍に進むが固辞。簡文帝幽閉後、朝謁できず気鬱の病で卒し享年七十八。侍中・太子詹事を追贈、諡は貞。長子陵が最も名高い。
徐陵――生涯
- 徐陵、字は孝穆。母臧氏が五色雲が鳳と化し肩に止まる夢を見て誕生した。幼くして沙門宝誌に「天上の石麒麟」と評され、慧雲法師に顔回と称された。八歳で文を作り十三歳で荘老義に通じた。長じて史籍に博渉し縦横の弁舌を持ち、父摛が晋安王諮議となると陵も寧蛮府軍事に参軍、王が皇太子となり東宮学士に選ばれ、尚書度支郎、上虞令に出るが御史中丞劉孝儀との旧怨から賍汚の風聞で弾劾され免官、後に通直散騎侍郎に復した。梁簡文帝(東宮時)の長春殿義記の序を陵が起草し、少傅府で荘子義を述作した。
- 太清二年(548年)兼通直散騎常侍として魏に使いし、主客魏収に暑さを揶揄されるが陵は王粛の故事を引いて機知に応じ収を赤面させた(斉文襄が収の失言を咎め投獄する余波があった)。侯景の乱で父摛が包囲下にあると聞き蔬食布衣で喪に服すように過ごした。斉が魏の禅譲を受け、梁元帝(承制)が斉に再び通使を求めたが陵は復命を求めても留め置かれ続けた。魏が江陵を平定し斉が貞陽侯明を梁の後継として送る際、陵が随行、太尉王僧辯は当初拒んだが明の往復書簡はすべて陵の起草によるもので、明が入るに及び僧辯は陵を尚書吏部郎に任じ詔誥を掌らせた。
- 同年、陳武帝が僧辯を誅し任約・徐嗣徽が石頭を襲った際、陵は僧辯の旧恩に感じて任約のもとに赴くが乱平定後、武帝は不問とし尚書左丞とした。紹泰二年(556年)再び斉へ使いし帰還後、給事黄門侍郎・秘書監。陳受禅後、散騎常侍を加官。天嘉四年(563年)五兵尚書・大著作を領す。六年、散騎常侍・御史中丞。安成王頊(帝弟)の権勢を背景に直兵鮑僧叡が訴訟を抑圧した事件を弾劾、文帝の御前で陵が奏状を読み上げると安成王は流汗失色、以後朝廷が粛然となった。
- 吏部尚書・大著作を領し、梁末以来乱れた選任制度を整え、冒進を戒める書を示した(要旨:永定期の官階制の混乱を説明し、天子の抜擢は選序によらぬこともあると諭す)。時人はこれを毛玠(魏の人事の名臣)に比した。宣帝の入輔・廃帝(伯宗)排除の議論に加わり、廃帝即位後、建昌県侯に封じられた。太建中、尚書左僕射として周弘正・王勔らを推挙しようとするも固辞、後に詔に従った。北伐の元帥人選で衆議が淳于量を推す中、陵独り呉明徹を推挙(裴忌との応答「明徹は良将、忌もまた良副」)、明徹が起用され功を挙げた(宣帝が「卿の知人の才を賞す」と杯を賜った)。
- 七年(575年)国子祭酒を領すが公事で免官、侍中僕射に復し侍中給扶。十二年(580年)中書監・太子詹事、老齢で致仕を求め宣帝が優遇して邸で政務を執らせた。後主即位後、左光禄大夫・太子少傅。至徳元年(583年)卒、享年七十七。特進を追贈。後主が自作の文を「他人の作」と偽って陵に見せたところ陵が「辞句が成っていない」と酷評し後主が根に持ち、死後の諡は本来「章」であったが後主が「章」に「偽侯」の意を含ませて格下げしたと伝わる。
- 人柄は器局深遠、清簡で財を殖やさず俸禄を親族と分かち合った(建昌の戸税で得た米を貧しい親族に分け与え、自らは車牛衣裳を売って食う逸話が伝わる)。若くして釈教に通じ経論の注釈も多く、後主の東宮で大品経を講じた際は名僧が遠くから集まった。瞳が青みがかった「聡慧の相」と評された。陳の創業以来の文檄・詔冊はすべて陵の作で一代の文宗と称されたが驕らず後進の指導も惜しまなかった。国家の重要な文書は必ず陵に書かせ、新文体を確立し周・斉にも伝わり尊重されたが、乱により多く散逸し現存は三十巻。四子は儉・份・儀・僔。
徐儉――生涯
- 徐儉、一名は報。幼くして品行方正で学に励み、汝南の周弘直が娘を娶らせた。梁元帝に「徐氏の子にまた文才あり」と評された。魏の江陵陥落後、建鄴に帰り中書侍郎。太建初、広州刺史欧陽紇の反乱を諭す使者として派遣され、紇が威圧的な態度で儉を脅すが「呂嘉の故事は遠くない、周廸・陳宝応の末路を見よ」と応じて動じず、紇は儉を孤園寺に軟禁するが儉は「私の生死は将軍次第だが将軍の成敗は私次第ではない」と諭して脱出させた。宣帝が章昭達に紇討伐を命じ儉が監軍、紇平定後、兼中書通事舎人。後主立ちて尋陽内史(善政、盗賊静息)、散騎常侍、建昌侯を襲封。御史中丞として公平に尚書令江総を弾劾するなど後主に重用され、禎明二年(588年)卒した。
徐份――生涯
- 徐份は父の風があり、九歳で夢賦を作り陵に「私の幼時に及ばぬ」と評された。海塩令として政績を挙げ、太子洗馬。孝心厚く、陵の病に断食して孝経を誦じ、三日後に陵の病が快癒した逸話がある。父に先立って卒した。
徐儀――生涯
- 徐儀は聡明で機知に富み、陳で尚書殿中郎。陳滅亡後、銭塘の赭山に隠棲。隋煬帝が学士に召し著作佐郎、大業四年(608年)卒した。
徐孝克――生涯
- 徐孝克は陵の弟で口辯に優れ玄理を語り、至孝であった。父の喪に耐えきれぬほど哀毀し、生母陳氏への孝養に努めた。梁末侯景の乱で饑饉のため妻臧氏(領軍将軍臧盾の娘)を養えず、孝克は妻に「他家に嫁いで互いに生き延びよう」と提案するも臧氏は拒んだが、侯景の将孔景行に強奪同然に迎えられた。孝克は剃髪して沙門となり(法整と改名)乞食で母を養った。臧氏は密かに援助を続け、景行の戦死後は孝克と再会し夫婦に戻った。銭塘に隠棲し仏典を講じ(毎日仏経と礼伝を講義、数百人が受業)、天嘉中(560–566年)剡令に任じられるが辞退、太建四年(572年)秘書丞への召しにも応じず、菜食・長斎で法華経を講誦した。
- 宣帝がその操行を嘉し国子祭酒とした。後主の宴席で孝克が食べず、席が終わると膳が減っている様子を後主が中書舎人管斌に探らせると、珍果を懐に入れて母に届けていたと判明、宣帝が感嘆し以後、孝克の前の膳を持ち帰らせて母に施すよう命じた。至徳中(583–586年)皇太子入学の釈奠で孝経を講じ、後主が皇太子に北面の礼を執らせた。禎明元年(587年)都官尚書。台城内の下舎に幽霊の噂があり、孝克が居住後二年で怪異が止み貞正の徳と称された。清貧で施しを好み、後主が石頭津の税を給付するもすべて設斎・写経に費やした。散騎常侍として東宮に侍した。
- 陳滅亡後、長安に移住し困窮、母の求めで粳米の粥を用意しようとしたができず、母没後は麦のみを食し、粳米を贈られても悲泣して食さなかった。開皇十二年(592年)長安の疾疫の際、隋文帝が召見し金剛般若経を講じさせ国子博士とした。後に東宮で礼伝を講じ、十九年(599年)病没、享年七十三。臨終時、正座して念仏し室内に芳香が漂う奇瑞があった。子萬載は太子洗馬。