生涯
- 顧協、字は正礼、呉郡呉の人。晋司空和の六世孫。幼くして孤児となり外家で養われた。外従祖右光禄大夫張永が虎丘山に連れて行った際「何をして遊びたいか」と問われ「石を枕にし流れに漱ぎたい」と答え、永は「顧氏はこの子で興る」と感嘆した。長じて学を好み精力で知られ、揚州議曹従事を経て秀才に挙げられ、尚書令沈約がその策文を「江左以来これほどの作なし」と評した。廷尉正を兼ね、太尉臨川王に召され記室、西豊侯正徳の侍読を務めた。
- 新安令に任じられたが赴任前に母の喪に遭い、始興王が厚く送り出した。喪船が峡江で暴風に遭い他の船は皆漂溺したが協の船のみ助かり、精誠の致すところと評された。張率の推薦で武帝に召され、年齢(三十五歳)を問われると武帝は「北方は四十歳で壮健だが南方は湿潤で三十過ぎればもう衰える、協ならもう老いだが孝行と信義は捨てがたい」と称賛、兼太学博士とした。湘東王参軍兼記室。普通中の挙士の詔で湘東王が推薦し通直散騎侍郎・中書通事舎人。
- 大通三年(529年)雷が大航の華表を撃ち焼いた事件を、協は不吉として奏上を控えたが、武帝が知るところとなり「雷は悪龍を罰するものだが朕の過ちを示すものでもある、協は悪を掩い善を揚げたが忠公とは言えぬ」と述べつつも結局免責した。鴻臚卿・員外散騎常侍・舎人如故。近臣として機密に関わり、著述はまず協に示された。卒官、着る物なく喪に付されたことが人々に嘆かれ、武帝は哀悼し散騎常侍を追贈、諡は温。清介な志操を持ち、廷尉正時代に冬服が薄く寺卿蔡法度が襦を分けようとしたが厳格さを憚り言い出せなかった逸話がある。舎人となり同僚は皆潤沢な生活を送ったが、協は十六年間清廉を貫き、門生の贈り物(銭二千)にすら激怒して以後贈答が絶えた。母の喪後は生涯布衣蔬食を通した。若い頃、舅の娘との許婚があったが婚儀前に母が亡くなり喪が明けても娶らず、娘が六十過ぎても未婚のままだったため義によって迎えたが子を成さなかった。博識で文字・鳥獣草木に精通し、著作に異姓苑五巻・瑣語十巻・文集十巻。