南史卷六十二 列傳第五十二 朱异
徐孝克、東海郯の人(?-599年)。徐陵の弟で口辯に優れ至孝、梁末の侯景の乱で困窮した際は出家して乞食で母を養った逸話で知られる。陳に仕えて国子祭酒・都官尚書等を歴任し、清貧を貫き布施を好んだ高士。陳滅亡後は長安に移り、隋文帝に召されて国子博士となった。
年表(5件)
- 天嘉中(560-)566年剡令に任じられるが辞退する
- 太建四年572年秘書丞への召しにも応じず法華経を講誦する
- 禎明元年587年都官尚書となる
- 開皇十二年592年隋文帝に召見され国子博士となる
- 開皇十九年599年73歳で病没する
生涯
- 朱异、字は彦和、呉郡銭塘の人。祖父昭之は学問で知られた。叔父謙之(字は処光、義烈で知られる)は幼くして母を亡くし葬地を焼かれたことで族人朱幼方を殺害し自首、県令の上表で斉武帝が義事として赦免したが、幼方の子懌が謙之の兄巽之(异の父)を殺害、异の叔父が懌を刺殺し、武帝は「皆義事、問うに及ばず」と再び赦した(沈顗の評「弟は孝に死し兄は義に殉ず」)。巽之(字は処林)は志節があり、幼き异を顧歓が見出し娘を娶らせた。
- 异は幼少期に群れて博打を好み郷党に嫌われたが後に折節して師に学んだ。梁初、五館開設で明山賓に師事し、貧しく写本の傭で生計を立てながら五経に精通、文史・雑芸(囲碁・書算)にも長じた。二十歳で上都、沈約に「卿は若いのに廉潔でない」と戯れられ「文義棊書すべてを持ち去るとは不廉」の意と悟った。建康の獄司設置を上書し容れられ、通常二十五歳で出仕のところ二十一歳で揚州議曹従事史に抜擢された。明山賓が異能の士として华麗な推薦文で薦め、武帝に召見され孝経・周易を説き「朱异は実に異なり」と評された。直西省、太学博士を兼ね、武帝が孝経を自ら講じる際に執読を務めた。尚書儀曹郎、中書通事舎人、中書郎。秋に蝉が冠に止まる瑞兆があり、太子右衛率。
- 普通五年(524年)魏徐州刺史元法僧の内附の真偽を議論した際、异は「必ず真」と判断し的中、報使・軍の応接を担当した。散騎常侍。容貌魁梧で軍国の故実に通じ、周捨没後は機密を代掌(軍旅・方鎮・朝儀・詔誥をすべて掌り処理速度は驚異的だった)。右衛将軍として儀賢堂で武帝の老子義を講じ千余人が聴講、士林館開設では賀琛と交代で武帝の礼記中庸義を講述し、皇太子の易講にも召された。大同八年(542年)侍中を加官。博学多芸・囲碁の名手だが貪財冒賄で欺罔、賢を進めず悪を退けず、四方の贈答を拒まなかったため人望を失った。邸宅は豪奢を極め、聲勢を誇示する行列で城門の開閉を待たせ、羊侃に匹敵する贅沢、食への執着(子鵞・炰鯴)、軽慢な態度を示した。批判に対し「私は寒士、貴族に侮られるので先に侮る」と開き直った。
- 徐勉・周捨没後、外朝は何敬容、内省は异が実権を握り(敬容は質朴、异は文華敏洽で世誉を営む対照的な二人で、共に寵を受けた)、内省で十余年譴責を受けず、司農卿傅岐の懸念に対し「諫争できぬだけだ」と応じた。太清二年(548年)中領軍・舎人如故。武帝の中原平定の夢に対し「天下統一の徴」と答えた。侯景の投降の可否を議論した際、謝挙ら反対派を退け、异が武帝の意向(帝国の完全性を惜しむ思い)を汲んで受け入れを進言し、帝は納れた。貞陽侯(蕭淵明)の敗没後の魏との和議も异が主導したが、侯景が和議破棄を恐れ賄賂(金二百両)を异に送ったところ受け取るのみで警戒を怠り、景は反乱に踏み切った。乱の前兆(鄱陽王範・羊鴉仁の警告)を异は取り合わなかった。
- 景の板橋侵攻時、徐思玉の詐りの陳情を高善宝が見抜き异の失態が露呈、景は异・陸驗の誅殺を大義名分に掲げ、武帝が誅殺しようとしたが簡文帝の「今殺せば嘲笑を招くのみ、乱が収まってから」との諫めで中止となった。城内で异への怨嗟が高まり、簡文帝の詩・賦(愍乱詩、囲城賦の一節)で暗に批判された。武帝が城壁から敵を望み「四郊多壘、誰の罪か」と問うと异は流汗し答えられず、慙憤のうちに発病し享年六十七で卒した。尚書右僕射を追贈(異例の追贈、宿志であった執法官への望みに応じたもの)。権要に居ること三十余年、四官すべて貂の飾りを帯び、右衛率から領軍まで四職を経る異例の栄達を遂げた。潮溝から青溪まで邸宅を連ね台池・玩好を楽しんだが吝嗇で施しをせず、厨房の食料は毎月十数車も腐って捨てられたという。著作に礼易講疏・儀注・文集百余篇。子肅(国子博士)・閏(司徒掾)はともに乱で卒した。