南史卷六十二 列傳第五十二 賀瑒

賀琛、字は国宝、会稽山陰の人。名儒賀瑒の甥で、幼くして瑒に経学を学び三礼に精通、四十歳を過ぎてから出仕した学者官僚。武帝の晩年、奢侈や貪官を戒める四条の上奏を行い直言で知られたが、これに武帝が激怒し自ら長文で反論した逸話がある。侯景の乱では城の陥落に際し捕らえられ、後に金紫光禄大夫として没した。

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生涯

  • 賀瑒、字は徳璉、会稽山陰の人。晋司空循の玄孫。世々儒術で知られる家系で、伯祖の道養は卜筮を能くし、急死した歌女を「天帝に召されたに過ぎぬ」と占って土塊を心臓に置き蘇生させた逸話がある。祖父道力は三礼で名高く宋の尚書三公郎・建康令、父損も家業を継いだ。瑒は幼くして聡敏、斉の劉瓛(会稽府丞)に才を認められ、共に呉郡張融を訪ねた際「この子は将来儒者の宗となる」と評され、国子生に推されて明経に挙げられ太学博士となった。
  • 梁天監初、太常丞として賓礼を脩め武帝に賓礼義を説き重んじられ、朔望に華林講に列した。四年(505年)五館開設に伴い五経博士を兼ね、皇太子のため礼を定め五経義を撰した。武帝が礼楽を創定する際、瑒の建議の多くが施行された。七年(508年)歩兵校尉・五経博士のまま卒した。著作に礼易老莊講疏・朝廷博士議数百篇・賓礼儀注百四十五巻。礼学に精通し館の弟子は常に数百、明経対策で及第する者は数十人に及んだ。二子は革・季、弟の子琛がともに瑒の学を継いだ。
  • 革(字は文明)は家貧で若くして耕作しながら学を続け、二十歳で学業に専念し、六尺の方牀に横たわり意義を理解するまで食事を取らなかったという。三礼に通じ、長じて孝経・論語・毛詩・左伝も修めた。兼太学博士、身長七尺八寸で雍容な人柄。永福省で邵陵・湘東・武陵三王に礼を講じ、国子博士として数百の生徒に講義。西中郎湘東王諮議参軍・帯江陵令として州学を設け儒林祭酒として三礼を講じ荊楚の士人が多く聴講した。南平郡を再監し人吏に慕われ、平西長史・南郡太守。至孝で俸禄が妻子に及ばぬほど故郷に還って寺を建てようとしていたが、容儀端麗な子徽が父に先立って死に、革は哀慟のあまり病を得て卒した。季も三礼に明るく中書黄門郎・著作を兼ねた。
  • 琛(字は国宝)は幼くして孤児となり伯父瑒に経業を授かり一聞して通じ、瑒は「この子は明経で貴顕に至ろう」と評した。瑒没後、家貧で諸暨で粟を売って母を養う傍ら学業を続け特に三礼に精通、瑒の門徒が次第に琛に学ぶようになった。瑒がかつて郷里で三千余人の門徒を教えていたが天監中に没し、琛が郊外に茅屋を建て三十歳頃から講義を開始、古の学説を引きつつ独自の弁を述べ聴衆を飽きさせなかった。湘東王(幼くして臨郡)の行事到溉が名声を聞いて訪ねた際、講義を中断せず、溉が問難を交わし「通儒碩学、また賀生に見る」と嘆じ、後に招こうとしたが琛は動じなかった。郡功曹史への招聘も母の老いを理由に固辞。母の喪に廬墓し服喪後も痩せ細り講義を再開できなかったが生徒が支えた。普通中(520–527年)太尉臨川王宏の召しに応じ祭酒従事となり(四十歳過ぎで初めて出仕)、武帝が文徳殿で引見し「琛は殊に門業あり」と徐勉に評し、王国侍郎、後に兼中書通事舎人参軍礼事、尚書左丞。新諡法の撰定を命じられ即座に施用された。
  • 皇太子の下問(大功の喪の末に冠子嫁女できるかの礼制論争)に対する琛の駁議は、冠嫁の礼は父が主宰するもので、小功の喪の末に自ら娶ることが許されるなら大功の喪の末に自ら冠することも許されるはずだが、下殤(幼くして死んだ子)の小功のみ特に娶らずと明記されているのは幼くして早世した情を重んじるためであり、他の降服の場合は冠嫁を妨げないと論じ、この議論は容れられた。員外散騎常侍を加官(尚書南坐に貂を用いる先例は琛に始まる)。御史中丞・参礼儀を経て、性格は貪欲で賄賂を多く受け、家産を蓄え主第を買って邸宅としたことが弾劾され免官。後に通直散騎常侍・尚書左丞・参礼儀事に復帰し郊廟の儀を多く制定、武帝との対話が長く続き「上殿不下有賀雅」と評された。
  • 武帝の晩年、任職者の奸諂を憂い、琛は四条の上奏を行った(①北辺平定期の戸口減少は牧守の責任、②今の官吏の貪残は風俗の奢侈に起因し倹約令が必要、③浮薄な者の昇進競争を戒め公平な評価を、④征伐後の財政窮乏を省事息費で解決すべき)。武帝は激怒し主書を通じて長文の反論を口授し、自らの節倹・不飲酒・不好音声・粗食・痩身などを列挙して琛の批判を退けたが、琛は謝罪のみで具体的な指摘は避けた。太清二年(548年)中軍宣城王長史。侯景の乱で城陥落の際、琛は負傷したまま賊に捕らえられ闕下に運ばれ、僕射王克・領軍朱异に開城納賊を勧めたが克らは涙で拒み止めた。莊厳寺で療養、翌年台城陥落後は郷里に逃げ帰るが、賊が会稽を侵し再び捕らえられ都に送られ、金紫光禄大夫に任じられて卒した。著作に三礼講疏・五経滞義・諸儀注、百余篇。子翊は巴山太守。