南史卷六十一 列傳第五十一 陳慶之

陳慶之、字は子雲、義興国山の人(?-539年)。若くして梁武帝の側近として仕え、寒門の出ながら軍才を発揮した名将。渦陽討伐や、北魏の内紛に乗じ北海王元顥を奉じて洛陽まで攻め上った北伐で快進撃を重ね、「名軍大将莫自牢、千兵万馬避白袍」と謡われた白袍軍で知られるが、最終的に洛陽から撤退を余儀なくされた。晩年は北兗州・南北司二州刺史等を歴任し治績を挙げた。

年表(6件)

生涯

  • 陳慶之、字は子雲、義興国山の人。幼くして梁武帝に仕え、囲碁の夜伽を務め信任された。建鄴平定後、主書として散財して士を集め常に功を立てようとした。奉朝請、普通中、魏徐州刺史元法僧の内附に応じ武威将軍として胡龍牙・成景儁と共に迎接、宣猛将軍・文徳主帥として豫章王綜の徐州入鎮を護送した。魏軍(安豐王元延明・臨淮王元彧、十万)が丘大千の別動隊を先発させると慶之がこれを撃破、豫章王綜が魏に奔った後は夜に囲みを破って全軍を保った。
  • 普通七年(526年)安西将軍元樹の寿春出征に総知軍事として従い、魏豫州刺史李憲の子長鈞の築城を攻略し憲を降した。東宮直閤。大通元年(527年)曹仲宗の渦陽討伐で、韋放の慎重論に反し「魏軍は疲弊している」と主張して五百騎で急襲し大破、渦陽城を包囲して半年余対峙、魏援軍の到来に撤退論が出るも武帝の密勅を盾に押しとどめ、魏の十三塁のうち九城四壘を陥落させ大勝した(渦水が屍で塞がるほど)。渦陽の地に西徐州が置かれ、城父まで進軍した。
  • 大通初、魏北海王元顥の投降に伴い、慶之は元顥を護送して北伐(前軍大都督)。銍県から睢陽へ丘大千の九塁を陥落、済陰王元徽業の羽林軍二万を破って禽獲、考城を落とし大梁へ進撃。元顥が徐州刺史武都郡王を称し西進、魏の楊昱ら七万が滎陽で拒む中、慶之は僅か七千の兵で「今日は生存を図らぬ」と決死の攻撃を宣言し塁を陥落、魏の元天穆の大軍を三千の精鋭で撃破、虎牢関を攻略、爾朱世隆は逃走し元顥は洛陽に入った。慶之は車騎大将軍に任じられた。
  • 魏の反撃(元天穆・王老生・費穆・刁宣・刁雙)を各個撃破し、天穆はわずかな供回りで逃走。慶之軍は白袍を着け向かうところ敵なく、洛陽の童謡に「名軍大将莫自牢、千兵万馬避白袍」と謡われた。銍県から洛陽まで十四旬で三十二城・四十七戦を平定した。元顥が驕り酒色に耽り梁と手を切ろうとする中、慶之は密かに武帝へ増兵を求めたが、元延明の警戒で疎まれ、軍副馬佛念の「洛陽を奪うべき」との進言にも従わなかった。慶之は徐州刺史を求めて出鎮しようとしたが許されず、魏の爾朱栄・爾朱世隆・元天穆・爾朱兆らが百万と称する軍で元顥を挟撃、洛陽陥落からわずか六十五日で全て魏に帰した。
  • 慶之は北中郎城を三日十一戦守るが敗れ、爾朱栄が黄河を筏で渡り河橋で元顥軍を破った(元顥は臨潁で捕らえられ死亡)。数千の兵で東帰しようとしたが追撃され、髭髪を剃り沙門に変装して豫州に逃れ、程道雍らの助けで汝陰から都に帰還した。功により右衛将軍・永興侯、北兗州刺史・都督淮上諸軍事として、沙門僧強の反乱(自称帝)に呼応した蔡伯竜の乱を鎮圧した。中大通二年(530年)南北司二州刺史・都督。懸瓠を包囲し魏の潁州刺史婁起・揚州刺史是玄宝を溱水で破り、行台孫騰・豫州刺史堯雄・梁州刺史司馬恭を楚城で破った。義陽鎮兵を罷め水陸転運を停止して民を休息させ、開田六千頃、二年で倉廩が充実した。南司州を省いて安陸郡を復し、上明郡を置いた。
  • 大同二年(536年)魏将侯景の楚州攻略(刺史桓和捕縛)に対し慶之が撃退した(大寒雪の中、景は輜重を捨てて逃走)。豫州の饑饉に際し倉を開いて救済し、李昇ら八百人が徳を頌える碑を求め詔許された。五年(539年)卒、諡は武。詔勅を受けるたびに沐浴するほど祗慎、倹素で紈綺を着ず糸竹を好まず、射は札を貫かず馬術も得意でなかったが、軍士の心を得てその死力を尽くさせた。長子昭が嗣いだ。梁の寒門出身の顕達者は慶之と俞薬のみだったという(俞薬は武帝に「俞氏に先賢なし」として改姓を勧められた際「姓を私によって尊くさせよ」と応じ、雲旗将軍・安州刺史に至った)。
  • 慶之の第五子昕(字は君章)は七歳で騎射に巧み、十二歳で父に従い洛陽に赴いたが病で帰還、鴻臚卿朱异に洛陽情勢を問われ土で城を描いて説明し驚嘆された。父が懸瓠にあった際、魏の驍将堯雄の子宝楽との一騎討ちに勝った。臨川太守を経て、太清二年(548年)侯景が歴陽を包囲した際召還されるが「采石は要衝、王質の水軍は弱い」と進言、雲騎将軍として代任するも間に合わず景に江を渡られ捕らえられた。景に部曲収集を強要されるが拒み、景の部将范桃棒に降伏を説いて内応させ、王偉・宋子仙を襲う計画を立てたが簡文帝の逡巡で漏れ、景に強要され偽の書を書かされても従わず殺害された。
  • 昕の少弟の暄は師なくして学び文才があり酒を好んで節がなかった。兄の子秀が心配し友人何胥に諷諌を頼んだが、暄は秀への返書で自らの飲酒哲学を長々と説き(周伯仁・鄭康成の故事を引き、「酒は兵の如し、千日備えて用いずとも一日備えざるべからず」の比喩を用い、墓碑に「陳故酒徒」と刻んでほしいと願う内容)聞き入れなかった。素行のため中正の評を得られず不遇だったが、陳の徐陵が吏部尚書となった際、奇抜な装束で無断で座に上がり陵に見咎められて連行されても悪びれず、後に陵を誹謗する文を書いた。後主(陳叔宝)の東宮で学士となり、即位後は通直散騎常侍として義陽王叔達・孔範ら「狎客」の一人となり、俳優的な言動で寵愛されつつ侮られた。梁に懸けられ刃を突きつけられて即興の賦を命じられても動じず慠弄が過ぎ、後主が艾で作った帽子に火をつける仕打ちを受け泣いて助けを求めたが、衛尉卿柳荘の取りなしで放免され、数日後、動悸を発して死んだ。