南史卷六十 列傳第五十 江革

生涯

  • 江革、字は休映、済陽考城の人。祖父斉之は宋都水使者・尚書金部郎、父柔之は斉尚書倉部郎で母の喪に毀卒した孝行者。革は幼くして聡敏、六歳で文を作り柔之は「この子は我が家を興す」と評した。九歳で父を、十六歳で母を失い、弟観と自ら学び励んで太学に入り高第に挙げられた。斉の王融・謝朓に重んじられ、謝朓が大寒の日に訪ねて革の貧しい寝具を見、自らの衣と氈を割いて与えた逸話が伝わる。竟陵王西邸学士、弱冠で南徐州秀才。豫章の胡諧之の推薦で琅邪王汎の後任となり、江祏に重用され太子詹事の丞として機務を任されたが、祏の誅殺に連座せず智によって免れた。
  • 尚書駕部郎中。梁武帝の石頭入城時、呉興太守袁昂の帰順の書を代作しその典雅さを賞され、徐勉と書記を分掌。建安王(雍州刺史)の記室参軍として弟観も従軍(観は途上で卒)。建康正・秣陵令・建康令として厳正な政治を行い豪強に憚られ、中書舎人・尚書左丞・晋安王長史・尋陽太守。廬陵王長史・太守行事として厳正を貫き、典籤趙道智と対立して誣告により罷免され、南州では「故人(道智)は道智にあらず、新人(後任の琅邪王曇聰)は佞なり」と評された。
  • 御史中丞として権貴の弾劾を憚らず、鎮北豫章王長史・広陵太守。魏の徐州刺史元法僧の内附に伴い彭城鎮守に赴くが失守、下邳で魏に捕らえられた。魏徐州刺史安豐王延明が革の才名を聞き厚遇しようとしたが屈せず、共に拘留された祖暅が延明のため銘を作った際「国の厚恩を受けながら虜のために銘を作るとは」と罵った。延明が丈八寺碑を作らせようとしても囚われの身を理由に断り、笞打ちの脅しにも「江革六十、身を以て報いられねば死を恥じぬ、人のために筆は執らぬ」と誓い、脱粟三升のみで命を繋いだ。魏帝が中山王元略を還す際に革・暅も放還され、武帝は「今日始めて蘇武の節を見た」と称賛、太尉臨川王長史とした。
  • 武帝が仏教への傾倒から詩を賜り信心を試そうとした際、革は既に因果を信じており菩薩戒を乞うた。武陵王紀の驕縦を憂えた武帝は革を長史とし、会稽郡丞・行府州事の任地では旧知の贈物を一切辞退し、俸給のみで暮らし、乗った台舸が傾くと西陵岸の石で重しをするほど清貧だった。呉郡太守として盗賊鎮圧、武陵王が江州出鎮の際「江革の清貧と共にありたい」と同行させ南中郎長史・尋陽太守。度支尚書として後進を奨励し士人に慕われたが、尚書令何敬容の人事に異を唱え権貴に疎まれ、病を理由に致仕。光禄大夫。卒諡は彊。文集二十巻。八府の長史・四王の行事・三たび二千石を歴任しながら姫妾を置かず家財も乏しく、当代に高く評価された。長子敏は早卒、次子は徳藻。
  • 徳藻(字は徳藻)は学を好み風儀美しく、身長七尺四寸、至孝。梁で尚書比部郎となり父の喪に服し、陳武帝受禅後は秘書監兼尚書左丞、後に中書舎人・散騎常侍として中書郎劉師知と斉へ使いし『北征道里記』三巻を著した。太子中庶子・御史中丞を経て公事で免官、自ら求めて新渝令となり治績を挙げたが在官のまま卒し、文帝は散騎常侍を追贈した。文筆十五巻。子椿も文才あり尚書右丞。
  • 弟の従簡は若くして文才があり、十七歳で「采荷調」を作り何敬容を風刺して評判を得、司徒従事中郎となったが侯景の乱で任約に殺害され、子兼は身代わりを乞い共に殺された。