南史卷六十 列傳第五十 范岫

生涯

  • 范岫、字は懋賓、済陽考城の人。曽祖父宣は晋の徴士、父羲は宋の尚書殿中郎・本州別駕で、竟陵王誕の反乱に連座して誅殺された。岫は幼くして学を好み、早くに父を失い母への孝で知られた。外祖父顔延之は岫を「中外の宝」と目し、蔡興宗は荊州刺史として主簿に招き、死に際し銭二十万を贈ろうとしたが岫は固辞した。
  • 斉に仕え太子家令。文恵太子の東宮で沈約らが文才を以て招かれた中に岫も加わり、文才では沈約に及ばぬものの徳行で並び称され、沈約は魏晋以来の吉凶故事に通じた岫を「胡広に匹敵する博学」と評し、范雲は「威儀を問うなら范長頭(岫)に」と人に語った。国子博士に遷る。身長七尺八寸、姿容は奇偉。永明中、魏使応対の任に妙選され淮陰長史を兼ねた。尚書左丞に入るが母の喪に礼を尽くし、朝廷の再三の起用要請にも喪を全うすることを許された。安成内史として倉の制度を創立し官民ともに益を得、黄門侍郎・御史中丞を兼ねても贈物を一切受けなかった。
  • 永元末、輔国将軍・冠軍晋安王長史・行南徐州事。梁武帝の建鄴平定後、尚書吏部郎に召され大選に参画。天監五年(506年)散騎常侍・光禄大夫として皇太子に侍し、のち祠部尚書・金紫光禄大夫を歴任して卒官。恭敬謹厳で、母の喪後は蔬食布衣で終生を過ごした。長城令として清廉で知られ、梓材の巾箱を数十年使い続け、晋陵在任中は牙管の筆一双を求めたのみで費えを厭った。著作に文集・礼論・雑儀・字訓。二子は褒・偉。