南史卷五十九 列傳第四十九 王僧孺

出自と若年期

  • 王僧孺、字は僧孺、東海郯の人。魏の衛将軍王肅の八世孫。曾祖雅は晋の左光禄大夫儀同三司、祖の凖之は宋の司徒左長史、父の延年は員外常侍を拝命前に没した。僧孺は幼くして聡慧、5歳で機警、孝経の講義を聞いて「忠孝の二事を論じたものだ」と答え「ならばぜひ常に読みたい」と言った。父への贈答の冬李(冬の李の実)を先に父が見ていないからと受け取らなかった逸話もある。7歳で十万言を暗誦、成人後は篤く典籍を愛し、家貧しく写本を業として母を養い、写し終えた書はすぐに暗誦した。
  • 斉で太学博士。尚書僕射王晏に才を評価され丹陽尹府の功曹として『東宮新記』撰述を命じられた。司徒竟陵王子良の西邸に太学生虞羲・邱国賓・蕭文琰・邱令楷・江洪・劉孝孫らと共に文学の士として遊び、髙平の徐勉と並び「学林」と称された。文恵太子に召されるも太子薨去で晋安郡丞・侯官令に出た。建武初、始安王遥光の推挙で儀曹郎・書侍御史を経て銭唐令。

斉における出仕

  • 竟陵王西邸で任昉と親交を結び、僧孺の銭唐赴任に際し昉は「唯子見知、唯余知子」で始まる送別の詩を贈り、士友の推重を得た。梁天監初、臨川王後軍記室待詔文徳省を経て南海太守。当時南海の風俗として牛の屠殺に限度がなかったが僧孺はこれを禁じ、外国船の物資・高涼の生口(奴隷)の交易で歴代の郡守が数倍の利を得ていた慣習も断ち、「昔、蜀郡に赴任した者は生涯蜀の物を持ち帰らなかった。子孫に残したいのはそのような遺産だ」と述べ、越の物産を一切取らなかった。
  • 2年の任期で声績を挙げ、召還が決まると郡中の民600余人が闕に詣で留任を請うたが許されず、中書侍郎・著作領・文徳省直・起居注中表簿の撰述を経て尚書左丞、御史中丞を兼ねた。幼くして貧しく母が紗布を売って生計を立て、僧孺を連れて市に赴いた際、中丞の鹵簿(行列)に道を追われ溝に落ちた逸話があったが、後に自ら中丞となり騶清道を従えた日にその感慨に涙した。

梁における南康王長史・仁威府

  • 武帝の「春景眀志詩五百字」に沈約以下と共作して工とされ、少府卿・尚書吏部郎参大選を歴任するも請託に応じなかったため出て仁威南康王長史・蘭陵太守・行府州国事となった。帝が僧孺に妾媵の数を問うた際「臣室に側室無し」と答えたが、実は南徐州で友人に預けた妾が身ごもり、それを王府典籤湯道愍に糾弾され免官となる不遇もあった。廬江の何炯に胸中を訴える書を送り、後に安成王参軍事・鎮右中記室参軍。
  • 文章に工み楷書隷書にも通じ、多く古事に識った。侍郎金元起が『素問』の注釈で「砭石」の意味を問うと、僧孺は『説文』『山海経』『春秋』『黄帝内経』の注などを引いて古人が石針を用いていたことを詳細に典拠を示して答えた。北中郎諮議参軍を経て西省に入り撰譜事を掌った。

百家譜の改訂

  • 尚書令沈約は「晋の咸和初の蘇峻の乱で文籍が失われたが、咸和2年(327年)以降宋代までの記録は左戸曹前廂の東西二庫(晋籍)に精詳に保存されている。宋元嘉27年(450年)に七条の徴発制度が始まって以降、姦偽の巧籍が増え、斉に至ってその弊害が甚だしくなった」と述べていた。
  • 東堂で校籍のための郎令史が置かれても賄賂で身分を偽る者が絶えず(「昨日の卑細な者が今日は士流を装う」)、年号を誤り官階を誤解する誤謬も多く(隆安を元興の後に置く、義熙を寧康の前に置くなどの誤り)、宋・斉二代の士庶混同・雑役の不備はここに起因すると沈約は指摘していた。晋籍の保護を訴える沈約の建言を武帝は重んじ、僧孺に百家譜の改定を命じた。
  • 晋太元中の員外散騎侍郎平陽賈弼が始めた「十八州一百一十六郡・合七百一十二巻」の簿状に基づき、弼の子匪之・孫深がその業を継ぎ、太保王弘・領軍将軍劉湛もこれを重んじた(弘は千客に対しても一人の諱も誤らなかったという)。劉湛が選曹在任中に「百家」を撰したが簡略に過ぎ、斉の衛将軍王儉が繁省を調整、僧孺はさらに范陽張氏ら九族を鴈門解氏ら九姓に代えて通用させ、東南諸族を別部として百家の数に含めない体系を整えた。
  • 普通2年(521年)没した。蔵書は万余巻・異本多数で沈約・任昉の家に匹敵した。文は麗逸で新事を多用し当世に珍重された。『十八州譜』710巻、『百家譜集抄』15巻、『東南譜集抄』10巻、文集30巻、『両臺弾事』5巻、『東宮新記』が世に行われた。

交遊の士(附伝)

  • 虞羲(字士光、会稽余姚の人)は才藻に優れ、晋安王侍郎で没した。邱国賓(呉興の人)は不遇の身を書に託し揚雄を譏る書を著した。蕭文琰(蘭陵の人)・邱令楷(呉興の人)・江洪(済陽の人)は、竟陵王子良の夜宴で灯芯の燃え尽きる時間を刻限とした詩会で、文琰が「一寸燃やして四韻の詩を作るのは容易すぎる」と言い、令楷・江洪らと銅鉢を打って韻を響かせその音の消える間に詩を成す趣向を凝らした。
  • 劉孝孫(彭城の人)は博学で敏才ながら仕官に恵まれず「古人はひと言の説で卿相を得たというが、それは書物の中の話に過ぎない」と嘆じた。徐夤(髙平の人)は学行があり、父の栄祖(祕書監)が獄に繋がれた際、赦免時に髪が真っ白になっていたことを「愆を心中に思い髪が外に変じた」と斉武帝に語り称賛された。

史論

  • 両漢は士を求めるのに経術を先んじたが、近代の取り立ては文史によることが多い。江淹・任昉が用いられたのもその時勢に会ったからであるが、淹はことに先見の明があり、それに沈静さを加えていた。昉は旧恩に加えその内行(家庭での徳行)を貫き、その名位が全うされたのはそれぞれの宜しきを得たものであろう。王僧孺は碩学でありながら中年に躓きを見たが、これも不遇というより窮通の運数というべきである。