南史卷五十七 列傳四十七 沈約・范雲
沈約、字は休文、呉興武康の人(?-513年)。父沈璞は元凶劉劭の簒立で落命し、若くして流寓孤貧の身となるも学問に励み博学多才で知られた。斉の竟陵王蕭子良のもとで「竟陵八友」の一人として名を馳せ、梁武帝の即位をいち早く勧めてその建国を助けた功臣。梁朝で尚書令等の要職を歴任し文人政治家として重んじられ、『宋書』『晉紀』『四声譜』などの著作でも知られる。
沈約――出自(沈氏の系譜)
- 沈約、字は休文、呉興武康の人。
- 遠祖は少昊金天氏の裔子昧の子允格・臺駘に発する。臺駘は治水の功により帝顓頊から汾川の地に封じられ、沈・姒・蓐・黄の四国が興った。沈国は今の汝南平輿の沈亭に当たる。春秋時代には諸侯の会盟に列したが、魯昭公4年(前538年)晋が蔡に命じて沈を滅ぼし、以後は国名を氏とした。
- 秦末に沈逞(丞相に徴されるも応じず)、その曾孫沈保(竹邑侯)、保の子沈遵(九江寿春に移住、斉王太傅・敷徳侯)と続く。以下、驃騎将軍沈逹、尚書令沈乾、南陽太守沈弘、河内太守沈朂、御史中丞沈奮、将作大匠沈恪、尚書関内侯沈謙、済陽太守沈靖、そして戎(字は威卿、州従事として賊尹良を説得して降した功により後漢光武帝から海昏県侯に封じられたが辞退し、会稽烏程県余不郷に避地して定住)と代を重ねる。
- 順帝永建元年(126年)会稽から呉郡を分置、霊帝初平5年(194年)烏程・余杭を分けて永安県を置き、呉の孫皓の宝鼎2年(267年)呉郡から呉興郡を分置、晋の太康3年(282年)永安を武康県と改め、以後代々「呉興武康の人」を称した。
- 戎の子鄷(字聖通、零陵太守、黄龍・芝草の瑞をもたらした)から、次子仲高(安平相)・少子景(河間相)に分かれ、演之・慶之・曇慶・懐文はその後裔である。仲高の子鸞(字建光、州別駕従事史)、鸞の子直(字伯平、州の茂才)、直の子瑜・儀(早くに父を失い孝行で知られた)。儀(字仲則)は乱世に節操を守り、族子仲山・叔山、呉郡の陸公紀と親交した。儀の子曼(字元禅、左中郎・新都都尉・定陽侯)、曼の子矯(字仲桓、立武校尉・偏将軍。孫皓のとき将帥の誉れ高く、呉の平定後は欎林・長沙両郡太守を辞退)、矯の子陵(字景高、晋元帝の鎮東将軍参軍事)、陵の子延(字思長、頴川太守、県東郷博陸里余烏村に居住)、延の子賀(字子寧、桓沖の南中郎参軍)、賀の子警(字世明、家産千金に及ぶ東南の豪士。謝安に招かれ参軍となったが辞去し隠棲した)。
沈約――曾祖沈警と一族の受難
- 警は道教(杜炅、字子恭)の門下に累代仕え、子恭没後は弟子孫泰、その弟子孫恩の代まで師事した。
- 隆安3年(399年)孫恩が会稽で反乱し征東将軍を自称すると三呉が応じ、警の子穆夫は会稽で恩に餘姚令に任じられた。恩が劉牢之に破られると穆夫は殺され、宗人沈預が警・穆夫父子の不和に乗じて讒言し、警・穆夫の弟仲夫・任夫・佩夫がことごとく殺害された。穆夫の子のうち深子・雲子・田子・林子・虔子の5人だけが難を逃れた。
沈約――伯祖沈田子の武功
- 田子(字敬光)は劉裕(武帝)の京城平定・建鄴進撃に従軍し、営道県五等侯に封ぜられた。広固征討では龍驤将軍孟龍符とともに前鋒を務め、龍符の戦死後もこれを破った。盧循が都に迫った際は孫季高とともに海路から広州を襲撃・平定。
- 淮陵内史・都郷侯を経て、義熙8年(412年)劉毅討伐、義熙10年(414年)司馬休之討伐に従い振武将軍・扶風太守。義熙12年(416年)武帝の北伐では傅弘之とともに武関から関中に入り青泥に屯した。姚泓が数万の兵で急襲したが、田子は寡兵ながら「兵は奇を貴び衆に在らず」として先制し、賊の囲みが固まる前に撃破、万余を斬り姚泓の偽の乗輿・服御を得た。武帝は文昌殿で「咸陽の平定は卿の功」と讃え咸陽・始平二郡太守に任じた。
- 武帝帰還後、赫連勃勃の侵攻に際し王鎮惡とともに北地に出撃。義真の長史王修が鎮惡を反乱者と疑い誅殺した際、田子も義熙14年(418年)正月15日、長安槀倉門外で王修に殺された。武帝は田子の死を「発狂による過失」として深く罪を問わなかった。
沈約――伯祖沈林子の武功
- 林子(字敬士)は幼くして王恭に器量を認められた。13歳のとき沈預の讒言による一族誅滅の禍にあい兄弟で山沢に潜伏したが、孫恩の乱に際し武帝に自首・帰順した。京城平定・都邑進撃に従い戦功を挙げ、18歳のとき沈預一族を討って父祖の仇を報いた。
- 慕容超征討・盧循平定に軍功を挙げ、劉毅討伐・司馬休之討伐にも従軍。武陵で郭亮之を討ち王鎮惡を救い、石城で魯軏を討った。武帝の姚泓征討では建武将軍として汴水から黄河に入り、蒲坂で檀道濟と協力、潼関では王鎮惡の孤軍を助けるべく道濟と力を合わせて姚泓の東平公姚紹の軍を破った。
- 姚紹が定城に籠ると姚鸞の守る城を夜襲して屠り、以後も姚讚・姚伯子らの軍を連破。姚紹が疽を発して死んだのち、姚讚の後軍も撃退した。田子が藍田で苦戦した際は秦嶺を越えて援護し、長安平定後は田子の長安追撃を諫めて独り占めの功を避けさせた。長安平定後、姚氏十余万口の西走を寡婦水・槐里まで追討。
- 文帝が荊州に出鎮する際は謝晦とともに藩佐に選ばれ、西中郎中兵参軍・新興太守として蕃屏の充実を進言、謝翼の謀反を予見した。永初3年(422年)漢寿県伯に封ぜられ間もなく卒し、元嘉25年(448年)懐と諡された。
沈約――父沈璞の生涯
- 林子の少子璞(字道真)は幼時から聡明で文帝に才を認められ、南平王左常侍を経て始興王濬の主簿となった。順陽の范曄が長史として州事を代行する疎放な人柄だったため、文帝は璞に密かに内情を報告させた。范曄在職8年、神州は安泰でこれは璞の功とされた。
- 元嘉22年(445年)范曄が誅されると濬は州事を璞に一任、後に始興国大農・淮南太守を歴任。元嘉30年(453年)元凶劉劭の簒立の際、迎えに遅れて殺害された。子に約がある。
沈約――若年期と修学
- 約は13歳のとき家難(父璞の死)に遭い、身を潜めて赦免を待ち免れたが、以後流寓孤貧の身となった。学問を志し昼夜書を離さず、母は労苦を案じて灯油を減らしたが、約は昼に読んだ書を夜に暗誦し、ついに諸書に博通し文章に長じた。
- 済陽の蔡興宗にその才を認められ、郢州で安西外兵参軍・記室を兼任。興宗は諸子に「沈記室は人倫の師表、よく仕えよ」と言った。荆州でも征西記室・闗西令を兼任、斉初は征虜記室・襄陽令。
沈約――竟陵王蕭子良のもとで
- 斉文恵太子に仕え歩兵校尉として書記を管理、永寿省で四部図書を校閲。東宮の多士の中でも特に親遇され、太子は朝の政務を早めるため約を頼りにした。
- 太子家令・司徒右長史・黄門侍郎を経て、竟陵王蕭子良の招いた学士の一人となり、蘭陵蕭琛・琅邪王融・陳郡謝朓・南郡范雲・楽安任昉らとともに「竟陵八友」として当世に知られた。隆昌元年(494年)吏部郎、東陽太守、斉明帝即位後は五兵尚書・国子祭酒。明帝崩後、冢宰徐孝嗣の求めで遺詔を撰定。永元中、司徒左長史・征虜将軍・南清河太守。
沈約――梁武帝の即位を助ける
- かつて梁武帝が西邸にあった頃から親交があり、建康城平定後は驃騎司馬に迎えられた。武帝の勲業が成るや、約は「今と古とは異なる。士大夫はみな尺寸の功を望んでいる。讖に『行中水作天子』とある。天心・人情ともに背けない」と即位を勧めた。武帝が思案すると、約は「昔、周武王も人の勧めに従っただけで、事は既に成っている。早く定めねば人心を失う」と重ねて説いた。
- 武帝は約の言に納得すると、次に范雲を召して同じ趣旨を語らせた。雲の答えは約とほぼ同じで、武帝は「智者は暗合するものか」と感嘆し、翌朝二人を再び呼んだ。約が雲を出し抜いて先に参内し、詔書と人事案をすべて懐中から用意していたため、武帝は改める必要がなかった。雲が遅れて参内し、事の次第を悟ると笑って「望みに違わず」と言った。
- 帝は雲・約両名に「わが起兵から3年、功臣・諸将には労があるが、帝業を成したのは卿ら二人だ」と語った。
沈約――梁朝での栄達と晩年
- 梁台建国で散騎常侍・吏部尚書兼右僕射、受禅で尚書僕射・建昌県侯。母謝氏も建昌国太夫人に封ぜられ、吏部尚書范雲ら20余人が祝賀に訪れた。天監2年(503年)母の喪に服し、鎮軍将軍・丹陽尹、侍中・右光禄大夫・太子詹事を歴任、尚書令に至り、後に左僕射・中書令、さらに尚書令・太子少傅を兼ねた。
- 天監9年(510年)左光禄大夫に転じたが、台司の地位を望みながら帝に用いられず、辞退も許されなかった。徐勉に宛てた書で老病(革帯の穴が月ごとに移動するほどの痩身)を訴え辞任を求めたが、三司の礼遇こそ許されず鼓吹のみ加えられた。
- 酒を飲まず嗜欲少なく、住居は東田に構え質素、その様を「郊居賦」に詠んだ。特進・中軍将軍・丹陽尹・侍中特進を歴任し、天監12年(513年)73歳で没し隠と諡された。
- 左目は重瞳、腰に紫のあざがあり、蔵書2万巻に及び都下随一と称された。少時貧しく、宗党から米数百斛を借りて侮辱を受けたが、貴顕になっても恨まず郡の部佐として用いた。文恵太子の宮人が侍宴の席にいたとき「識る者はただ沈家令のみ」と語られ涙を流し、帝も悲しんで酒宴を止めた。
- 三代に仕えて旧章に精通し博物洽聞、謝朓の詩・任昉の文と並び称され両者を兼ね備えると評された。ただ栄利への執着が清談の評価を損ね、要職にあっても常に辞退を願いながら退けなかった。10年余り政に携わったが人材推挙は少なく、山濤に比された。
- 張稷に含むところがあった武帝に対し、約が「已往の事、論ずるに足らず」と応じたところ、帝は約を張稷の姻戚として怒り輦で内殿へ帰った。約は驚き、帰宅途中で意識を失い倒れた。病中、斉和帝が夢に現れ舌を断つ夢を見て、道士に赤章(禅代の事は自分の本意でなかったと天に訴える文)を奏させた。かつて侍宴で栗の数を競った際「陛下に一歩譲らぬ気性」と評され不遜とされかけたが徐勉の諫めで事なきを得た経緯もあった。
- 病中、遣わされた主書黄穆之が容態を怠って報告せず、それを恐れて赤章の一件を医徐奘を通じて上聞したため帝の怒りを買い、中使の譴責が重なる中で没した。有司は「文」と諡すよう奏したが、帝は「情を懐いて尽くさざるを隠と曰う」として隠と改めさせた。
沈約――著作
- 若くして晋代の通史がないことを憂い、20歳頃から編纂を志した。宋泰始初、征西将軍蔡興宗の推挙で明帝の勅許を得て着手し、20年余りを経て百余巻を完成させたが、永明初に盗難で第五帙を失った。
- 斉建元4年(482年)勅命で国史撰述、永明2年(484年)著作郎を兼ね起居注を撰次、永明5年(487年)勅で『宋書』撰述、永明6年(488年)2月完成・上表。撰した国史は『斉紀』20巻。天監中には『梁武紀』14巻、『邇言』10巻、『諡例』10巻、『文章志』30巻、文集100巻を撰し、いずれも世に行われた。
- 『四声譜』も撰し、千年来誰も悟らなかった声調の妙旨を極めたと自負したが、武帝はこれを好まなかった。周捨に「何を四声と言うか」と問われ「天子聖哲」がそれだと答えたという逸話があるが、帝はついに用いなかった。
沈約――子旋・孫衆(附伝)
- 子の旋(字士規)は爵位を襲い司徒右長史・太子僕を歴任、母の喪に服し疏食・辟穀した後も粳粱を絶ち、南康内史で没し恭と諡された。『邇言』に注を付し世に行われた。
- 旋の弟趨(字孝鯉)も知名で黄門郎。旋の子寔が跡を継ぎ、寔の弟衆(字仲師)は学を好み文詞に長じ、梁で太子舎人となった。梁武帝の『千文詩』に注解を付し、陳郡謝景とともに文徳殿に召され、竹賦を作って武帝の勅答を得た。太子中舍人・散騎常侍を歴任し魏へ使節、帰国後は驃騎廬陵王諮議参軍。
- 侯景の乱に際し呉興で旧部曲を募って救援を上表、都に入り景と対峙、梁武帝は城内から太子右衛率を授けた。台城陥落後は景に降り、景平定後は元帝に司徒左長史として仕えたが、魏の江陵陥落で捕虜となり後に脱出して陳に帰った。
- 陳武帝に中書令として仕え敬重されたが、吝嗇で財貨に無頓着、粗末な布袍・芒鞋を用い、麦飯を食すなど質素を貫き朝士に誚られた。性は狷急で公卿を批判し朝廷を非毀したため、武帝は公然と誅すことを避け、休暇で呉興に帰った際に呉中で賜死させた。
范雲――出自と若年期
- 范雲、字は彦龍、南郷舞陰の人。晋の平北将軍范汪の六世孫、祖の璩之は宋の中書侍郎。雲は6歳で叔父袁叔明に毛詩を学び、一日に9紙を暗誦、陳郡の殷琰は「公輔の才」と評した。機警で文才に富み即座に文章を成すため、事前に草稿を用意していたと疑われるほどだった。
- 父范抗の郢府参軍在任中、呉興の沈約・新野の庾杲之に親しく交わり、郢州西曹佐・法曹行参軍として出仕。沈攸之が郢城を囲んだ際、雲は捕らえられたが従容として臆せず、攸之に気に入られた。城内への使者を務め、城内から誅殺の議が出たが「老母弱弟の命を懸けて任を果たす」と述べ、栁世隆の取りなしで免れた。
范雲――竟陵王蕭子良のもとで
- 斉建元初、竟陵王子良の会稽太守府主簿となる。秦望山登山に際し、始皇帝の刻石文(三句一韻・大篆で難読)を独り史記から読み解いて子良を驚かせ、以後寵遇を得た。子良の丹陽尹府でも主簿として深く親任された。
- 斉高帝に白烏の献上があった際、王者が宗廟を敬えば白烏が至ると答え、その理の的中に帝が感嘆した。子良の南徐州・南兗州転任にも従い政の得失を進言、尚書殿中郎を経て、子良が禄を求めた際、斉武帝に「雲は諂事する」と評されたが、子良が「雲の諫書百余紙は皆切実」と弁護し帝も感嘆した。
- 子良の司徒府記室として、巴東王子響の乱後の不穏な情勢下、豫章王嶷・梁武帝(当時南郡王文学)とともに子良に石頭還鎮を勧めた。廷尉平王植を通じて工作し、後に豫章王・司徒がそれぞれ石頭・東府に鎮した。文恵太子の東田での稲刈り視察に従い「三時の務めは労苦。一朝の宴逸に耽らず稼穡の艱難を知られよ」と諫め、太子は改容して謝した。
- 侍中蕭緬に「今日また讜言を聞くとは思わなかった」と称された。永明10年(492年)魏への使者となり、李彪に厚遇されたが甘蔗・柑橘の饗応を辞退し「一度で尽きれば二度と得られぬ」と応じた。零陵内史では従来の雑税4千石を半減して民に慕われ、正員郎に転じた。
范雲――梁武帝の即位を助ける
- 高武帝の王侯がみな禍を恐れる中、雲は明帝に「文宣王(子良)が夢に見た文恵太子・武帝・文宣王が次々崩じ、僕射(雲自身)が御牀に座る夢」を語り、王室内の疑心を和らげた。
- 子良に寵遇されたことから江祏に娘の縁談を持ちかけられ剪刀を娉物として受けたが、後に江祏の権勢が増した際は縁を返上し他家との縁組を薦めた。江祏失脚後もその遺族の面倒を見た。
- 始興内史として、亡奴婢を勝手に部曲へ組み入れる旧慣を改め、百日間持ち主を待って無ければ台に送る規則を定めた。後堂の雑工作も廃止し帝に賞された。郡には豪猾大姓が多く前任者は武装して自衛したが、雲は恩徳をもって撫し、亭候を廃して商賈を安眠させ「神明」と称された。
- 広州刺史・平越中郎将として孝子南海羅威・唐頌、蒼梧丁密・頓琦らの墓を祭らせた。江祏の姨弟徐藝(曲江令)が地元豪族譚儼を鞭打った事件で訴えられ、召還・下獄したが恩赦で免れた。
- 梁武帝が司徒祭酒だった頃から西邸で親交があり、東郊に隣り合って居を構えた。梁武帝が起兵し都に迫った際、雲は無官の身ながら宿縁を思い自ら城入りを画策し、太原の孫伯翳の助言に従い待機した。東昏侯が弑された後、侍中張稷の使者として石頭に赴き、梁武帝に旧知として厚遇された。
范雲――梁朝での活躍と晩年
- 黄門侍郎として沈約とともに大業を輔翼、大司馬諮議参軍・録事、梁台建国で侍中。武帝が斉東昏侯の余妃を後宮に納れることに諫言し、王茂とともに帝を動かして余氏を茂に賜わらせた。
- 受禅の南郊祭祀で侍中として参乗し、帝の「懔乎として朽索の六馬を馭するが若し」との言に「日々に慎重を」と応じた。散騎常侍・吏部尚書、佐命の功で霄城県侯。旧恩により重用され誠を尽くし、上奏はほぼ全て容れられた。
- 帝より年長の雲を臨川王宏・鄱陽王恢に「兄」と呼ばせるほどの厚遇を受けた。帝の即位以前の予兆(門生王道の言、讖文「齊祚不久」等)の逸話を語り合う仲だった。太子中庶子・尚書右僕射兼吏部を経たが、詔に背いて人事を行った罪で吏部を免じられ右僕射のみ留任。
- 寡嫂に礼を尽くし家事は必ず相談してから行う篤実な性格で、友の王畡が急死した際は東廂を与え自ら葬儀を営んだ。選官として文書・賓客に忙殺されても応対は流れる如く滞りなく、明晰さで知られたが、性急で威重に欠け是非を露わにする点を難ずる声もあった。
- 郡守時代は清廉と評されたが、貴顕後は贈答を通じつつも蓄財せず親友に散じた。武帝の九錫の際に重い病を得たが、医徐文伯の「速く治せば2年しか保たない」との忠告に「朝聞夕死、況んや2年をや」と即治療を選び回復、2年後に没した。帝は流涕し即日臨殯、侍中衛将軍を追贈、諡を「文」と勅した。文集30巻。子は孝才が跡を継いだ。
范縝――生涯と神滅論(附伝、雲の従兄)
- 縝、字は子真。父濛は奉朝請で早世、縝は幼くして母に孝を尽くし、20歳前に沛国の劉瓛に師事、その才を認められ元服の礼まで受けた。裕福な学友の中で貧しさを恥じることなく学び、経術に博通し特に三礼に精通した。性は質直で高論を好み士友に敬遠されたが、外弟蕭琛だけが親しく、その弁舌を認めた。29歳で白髪となり「傷暮詩」「白髪詠」を詠んだ。
- 斉で尚書殿中郎、永明中(483–493年)魏との和親に際し従弟の雲、蕭琛、琅邪の顔幼明、河東の裴昭明とともに使者に選ばれ隣国に名を知られた。竟陵王子良の賓客の一人だったが、子良が仏教を篤く信じたのに対し、縝は無仏(因果応報を否定する論)を唱えた。
- 子良の「因果を信じずしてなぜ富貴貧賤があるのか」との問いに、「人生は樹花の如し、風に随い落ちる先は同じでも、簾幌の上に落ちる者と糞溷の中に落ちる者がいる。殿下は前者、下官は後者。貴賤は異なれど因果の入る余地はない」と答え、子良は屈服できなかった。
- 退いてその説を論じ『神滅論』を著し、「神は形なり、形は神なり。形存すれば神存し、形謝すれば神滅す」「形は神の質、神は形の用」「神の質に対する関係は利の刃に対する関係の如し。利の名は刃ではないが、刃を捨てて利無く、利を捨てて刃無い」と説いた。朝野が騒然となり、子良は僧を集めて論駁させたが屈しなかった。
- 太原の王琰が「范子はその先祖の神霊の在り処すら知らぬのか」と譏ると、縝は「王子はその先祖の神霊の在り処を知りながら殺身して従わぬのか」と切り返した。子良は王融を通じ「神滅を執し続ければ名教を傷つける。放棄すれば中書郎も夢ではない」と説かせたが、縝は「范縝が論を売って官を得るなら令僕にも至っていよう。中書郎などとるに足らぬ」と大笑して拒んだ。
- 宜都太守として神鬼を信ぜず、夷陵の伍相廟・唐漢三神廟・胡里神廟への祭祀を禁じた。母の喪に服し南州にあった際、梁武帝(旧知)が墨縗のまま出迎え、建康平定後は晋安太守として清約に努めた。尚書左丞に転じても、旧友の前尚書令王亮にのみ贈り物をした(旧友への義理を通したが、王亮の失脚(広州流罪)に連座して自らも累年広州に留め置かれた)。
- 帰京後は中書郎・国子博士を歴任して没した。文集15巻。子の胥(字長才)は父業を継ぎ国子博士、大同中に主客郎を兼ね北使応接、鄱陽内史で没した。
史論
- 斉の徳が衰え暴虐な君主が臨む中、民の命は旦夕にかかっていた。梁武帝はその機運を受けて風雲を叱咤し立った。范雲は帝の潜龍時代からの恩義で結ばれ、沈約は旧友としての情誼が深く、ともにその文才で幕僚の首座に立ち、乱を平定する者に追従した――それぞれの時運であった。
- ただ約は高才博学で世に知られながら、晩年の失策(張稷の一件)でその名を落とし、これも鳳徳の衰えというべきか。范縝の一途な節操は終始変わらず、王亮を見捨てなかったことをことさらに非とするには及ばない。