南史卷五十六 列傳第四十六 鄭紹叔

鄭紹叔、字仲明、榮陽開封の人(?–?、府舎で病没)。梁武帝が司州にあった頃から仕え、挙兵後は江州の糧運を統轄し、忠誠と謙譲で知られた。諡は忠。

年表(2件)

若年から梁武帝への帰属

  • 鄭紹叔は字を仲明といい、榮陽開封の人で、代々壽陽に住んだ。祖父の鄭琨は宋の高平太守。紹叔は二十餘歳で安豐令として能吏と評され、後に本州中從事史。刺史蕭誕の弟蕭諶が誅殺され台軍が蕭誕の兵を収めに来た際、左右の者は逃げ散ったが紹叔は独り駆けつけ、誕の死後も喪柩を送って人々に称えられた。都で司空徐孝嗣に「祖逖の流れだ」と評された。
  • 梁武帝が司州にあった頃、中兵參軍・領長流として仕え深く結びついた。武帝が司州を離れる際、紹叔だけが留まることを固請したが武帝は「今はまだ君に報いられない」と断った。壽陽刺史蕭遥昌が強く紹叔を招いたが応じず、囚われかけて郷人に救われた。武帝が雍州刺史となると紹叔は間道を通って帰参し、寧蠻長史・扶風太守。
  • 東昏侯が朝宰を殺し武帝を疑った際、紹叔の兄鄭植が東昏の直後として雍州に来訪を装い刺客の任を負っていたが、紹叔はこれを察知し武帝に密告、武帝は宴を設け「朝廷は卿に私を図らせに来た、今日の宴もその機会だ」と戯れ、植に城内の兵備を見せると、植は「雍州は容易に図れぬ」と紹叔に語った。紹叔は「兄が帰って武帝に伝え、もし攻めるなら私が先陣を切って兄を南峴で迎え撃つ」と答え、二人は抱き合って泣き別れた。続いて刺客の任を負った杜伯符が来た時も武帝は察知しつつ普段通り接した。武帝即位後の五百字詩にこの経緯が詠まれた。

挙兵から江州経営、晩年

  • 挙兵の際、紹叔は冠軍将軍から驍騎将軍に改め東下に従い、江州平定後は監州事として留まり、武帝から「蕭何が関中を鎮めて漢祖が山東を得、寇恂が河内を守り光武帝が河北の基を築いたように、今の九江は昔の河内だ。前線が捷たねば私の咎、糧運が続かねば卿の責」と託され、紹叔は涙して拝辞し、江湘の糧運を絶やさず果たした。
  • 天監初め(502年)衞尉卿。幼くして孤貧のうちに母・祖母に孝を尽くし兄にも恭謹であった。要職にあっても俸禄や四方からの贈り物はすべて兄の家に渡し、武帝への上奏では善事は「陛下の策のおかげ」、不善は「私の智慮が浅かったせいで朝廷を誤らせた」と述べ、武帝は深く親任した。母の喪では哀慟し武帝が哭泣を控えさせたほどであった。営道縣侯に封じられ、後に東興縣侯に改封。天監三年(504年)魏が合肥を包囲した際、本号のまま督軍として東関を鎮め事後は衞尉に復した。
  • 義陽が魏に入ると司州は関南に移され、紹叔は司州刺史として城隍を創立し兵を繕い穀を積み流民を安んじた。性は矜躁で権勢を誇ったが人に傾心して交わり、多くの人材を推挙した。左衞将軍に召されたが帰宅前に病篤くなり詔で宅にて拝授、輿に乗せて府に戻し医薬を日に数度施したが府舎で卒した。武帝が弔問に赴こうとしたが邸宅が狭く輿駕を通せず断念、散騎常侍・護軍将軍を贈り諡は忠。武帝は後に「鄭紹叔は忠烈の志を持ち、善事は君に帰し過ちは自ら負った、当代に並ぶ者はいない」と涙して評した。子の鄭貞が嗣いだ。