南史卷五十五 列傳第四十五 鄧元起

鄧元起、字仲居、南郡當陽の人(?–?、後任の西昌侯蕭藻に殺害される)。梁武帝挙兵を支えて益州刺史となり蜀を平定したが、召還後に蕭藻に無実の罪を着せられ殺された。諡は忠侯。

年表(3件)

蜀への進撃

  • 鄧元起は字を仲居といい、南郡當陽の人。若くして胆略あり任俠を好み、齊で武寧太守。梁武帝挙兵に際し蕭穎胄の招きで即日出発し夏口で合流した。齊和帝即位後は広州刺史。中興元年(501年)益州刺史・前軍。建康平定後、征虜将軍に進み、天監初め(502年)當陽縣侯に封じられ、ようやく赴任した。
  • 武帝挙兵当初、益州刺史劉季連は日和見であったが元起の接近を知り拒戦した。元起が巴西に至ると太守朱士略が開門して迎え、蜀人が続々と帰順した。元起は当初、政治の緩んだ蜀郡の戸籍を検して罰することで軍資を得ようとしたが、涪令李膺は「今、山人がやっと帰順したところで刻薄に接すれば人心が離れてしまう、私に任せてほしい」と諫め、富人から自主的に軍資米三万斛を集めさせた。

蜀平定と晩年の禍

  • 元起は西平に進屯、劉季連は籠城を続けたが蜀の兵乱で人相食むほどに荒廃し、翌年武帝の赦免を受けて降伏、季連を建康に送った。元起は同郷の庾黔婁を録事參軍とし、荆州刺史蕭遥欣の旧客蒋光濟も厚遇して州事を任せた。黔婁は清廉、光濟は多謀で共に善政を勧めた。城内の財宝には私心を持たず、酒に強くとも乱れなかったが、蜀入り後は禁酒し称賛された。
  • 舅の子梁矜孫が「城中に三人の刺史がいると噂されている」と告げ口したため、元起は黔婁を疎んじて政績が落ちた。二年後、母の老いを理由に召還を願い許され、右衞将軍に召されて西昌侯蕭藻が後任となった。梁州長史夏侯道遷が南鄭で魏に叛き、魏将王景胤・孔陵が東西晉壽を攻めて急を告げたが、元起は「万里の朝廷から援軍は来ない、督統は私しかいない、なぜそう急かすのか」と応じず黔婁らの諫めも聞かなかった。
  • 武帝が仮節を与え救援に向かわせたが到着時には両晉壽は既に陥落しており、蕭藻が来ると元起は装備・糧秣をほとんど整理して残さなかった。蕭藻が良馬を求めると元起は「若い方に馬など何用か」と答え、藻は酔って怒り元起を殺した。部下が城を囲んで泣き問い詰めると藻は天子の詔と偽って散らせ、元起を反逆者と誣告した。武帝は疑い、有司は爵土削減を弾劾したが、故吏の羅研が上訴すると、武帝は「私の見立て通りだ」と藻を「元起はお前の仇を討ったのに、お前は仇に報いるとは、忠孝の道はどこにあるのか」と責め、藻を冠軍将軍に貶し、元起には征西将軍・鼓吹を追贈し諡を忠侯とした。

羅研

  • 羅研は字を深微といい、才弁に優れた。鄧元起の蜀平定後に主簿として辟召され、後に信安令として、農事監督の名目で百姓を煩わせる「観農謁者」制度の弊害を除くよう請い、武帝はこれを許した。鄱陽忠烈王蕭恢が蜀に臨むとその名声で別駕に招かれ、西昌侯蕭藻が再び刺史となると州人は羅研を心配したが、彼は動じなかった。
  • 斉苟兒の乱の際、臨汝侯に「蜀人は乱を好む」と嘲られると、羅研は「蜀の積弊は一朝一夕ではない、百家の村でも余裕ある家は数戸のみ、困窮者は十に八九、束縛される者は十に二三、乱を喜ぶのも無理はない。もし五羽の鶏、一頭の豚、床上に百銭、麦飯があれば、蘇秦張儀の弁舌や韓信白起の武威をもってしても一人の盗人も出まい」と答えた。
  • 大通二年(528年)散騎侍郎。忠烈王恢が「蜀では何事も羅研に任せていた、汝もこれに倣え」と嗣子の蕭範に言い残し、範は別駕として羅研を重用、その母への礼を蜀人は栄誉とした。数年後官にて卒した。蜀の文才で名を成した者は羅研と同郡の李膺のみとされる。

李膺

  • 李膺は字を公胤といい、才弁があった。西昌侯蕭藻が益州にあった時に主簿となり、都への使いで武帝に「今の李膺と昔の李膺いずれが優れるか」と問われ、「今が勝ります、昔は桓帝・霊帝に仕えましたが今は堯舜の君に逢いましたゆえ」と答え、武帝はその応対を喜び益州別駕とした。『益州記』三卷を著し世に行われた。
  • 以前、鄧元起が荆州にあった時、隨王が元起を從事別駕に任じようとしたが庾荜が強く反対し、元起は恨みを抱いた。建康平定時、庾荜は城内で恐怖していたが、元起は先んじて庾荜を迎え「もし乱兵に殺されれば私は身の潔白を証せない」と厚く遇した。西沮の田舎で僧に稲を乞われると二千斛近くを施し、時人は元起の度量を称えた。
  • 元起は益州赴任の途中、江陵で道教に仕える母を迎えようとしたが、母は「お前は貧賎の家の子が急に富貴になったのだから長くは保てまい、私はここで死ぬ方がよい」と拒んだ。巴東で蜀の乱を聞いた元起は蒋光濟に占わせ「蹇」の卦を得て「私は鄧艾のようになるのか」と嘆いたが、果たしてその通りとなった。子の鄧鏗が嗣いだ。