南史卷五十五 列傳第四十五 楊公則
楊公則、字君翼、天水西縣の人(?–505年、北伐途上の壽春近郊で軍中に没)。梁武帝の挙兵で先駆をつとめ建康平定に功があり、湘州刺史として清廉な治績を挙げた。諡は烈侯。
出自と若年
- 楊公則は字を君翼といい、天水西縣の人。父の仲懐は宋豫州刺史殷琰配下の将であったが、殷琰の叛乱で輔国将軍劉勔の討伐を受け横塘で戦死。公則は未だ弱冠に満たぬ身で父の遺骸を抱いて号泣し、劉勔から首級を返され、徒歩で郷里に負い帰り、名を挙げた。
- 梁州刺史范柏年に宋熙太守・白馬戍主を授けられ、氐賊李烏奴が白馬を攻めた際、矢も食糧も尽きて捕らわれながらも抗して罵り、烏奴はその胆識を壮として招こうとしたが、公則は偽って応じ図ろうとし計画が漏れて単騎で逃げ帰った。齊高帝は詔で称え、晉壽太守として清廉に治め、扶風太守に転じたが母の喪で退官。雍州刺史陳顯逹の起用で寧朔将軍・太守。荊州刺史巴東王蕭子響の乱を討伐した功で武寧太守。前軍将軍に入る。
西下と建康攻略
- 齊和帝が荊州刺史時代、公則は西中郎中兵參軍。蕭穎胄と梁武帝の連携で公則は輔国将軍・西中郎諮議參軍として東下、和帝即位後は湘州刺史を授かった。武帝軍が沔口に至ると公則は湘府の軍を率いて夏口で合流し、荆州諸軍はみな公則の節度を受け、蕭穎逹のような宗室の貴人すら隷属した。
- 郢城平定後、諸軍が東下すると公則は先駆を受命、江州平定後も直進して建鄴を目指し、号令厳明で秋毫も犯さなかった。新林に至ると北楼から敵の攻城戦を望見し、麾蓋を狙う神弩を跳ね返しても談笑を絶やさなかった。東昏の夜襲でも動じず、部下が驚擾する中で反撃を命じて撃退した。公則の兵は湘溪の出身者が多く臆病で軽んじられ、しばしば公則の陣が真っ先に攻められたが、公則は軍を励まし戦果を挙げ続けた。城平定後は東掖門で列陣して脱出する公卿士庶を護送した。
湘州治政と最期
- 左将軍に進み南藩を鎮めた。天監元年(502年)平南将軍・寧都縣侯。湘州は戦乱で人口が流散していたが、公則は軽刑薄斂で回復させ、清廉さで吏民に慕われた。湘地の風習であった賄賂による州職の売買を一切禁じ、州郡の名族のみを起用し、武帝はこれを模範として諸州に頒布させた。
- 天監四年(505年)中護軍に召され、後任が着任すると即座に発ち、無所有のまま出立。衞尉卿に遷り、北伐議の際に威名により先んじて洛口に屯するよう仮節を授けられた。出発時に病を得ながらも「廉頗・馬援の故事に倣い、老いても国のために力を尽くしたい」と強いて舟に乗り洛口に至った。壽春の士女数千戸が帰順し、魏の豫州刺史薛恭度の長史石榮の軍を撃破したが、壽春数十里で病篤くなり軍中で卒した。武帝は当日哀を挙げ、諡は烈侯。
- 公則は敦厚慈愛で、兄の子を我が子以上に扱い家財を託した。学を好み軍中でも読書を絶やさず、士大夫に称賛された。子の楊㫖は罪により国除となったが、武帝は功勲を惜しみ庶長子楊眺を嗣がせ、眺は長く固辞した末に受爵した。