南史卷五十五 列傳第四十五 吉士瞻

吉士瞻、字梁容、馮翊蓮勺の人(?–526年、任地の郡で没)。四十を過ぎて武で身を立て、梁武帝挙兵で反乱者を討平し秦・梁二州刺史等を歴任した。諡は胡。

年表(2件)

吉士瞻

  • 吉士瞻は字を梁容といい、馮翊蓮勺の人。若くして志気があり生業に従事せず、征士吳苞に姿容を見出され経学を勧められたが、鮑照の詩「竪儒守一經、未足識行藏」を誦して意に介さなかった。四十を過ぎ不遇を嘆き、江陵の卜者王先生に禄命を占わせると「君は一州にとどまらぬ旄節を擁し、一年後に大郡を得よう」と告げられた。
  • 梁武帝挙兵の際、義陽太守王撫之・天門太守王智遜・武陵太守蕭彊らが従わず、鎮軍蕭穎胄が士瞻を遣わして討平した。齊和帝即位後は領軍司馬。若き日、南蠻国で賭博に興じて衣なきまま恥をかいたことがあったが、後に魯休烈軍を平らげて絹三萬疋を得ると百の褌を作り、自らは一つも取らず軍士に賜った。軍功で輔國将軍・歩兵校尉、建康平定後は巴東相・建平太守。
  • かつて荆府城局参軍として仗庫の池を浚渫した際に「錫爾金鉤、且公且侯」と篆された金革鉤を得た。士瞻の妻は夏侯詳の兄の娘であり、密かに詳へ贈って詳が佩用したところ、後の革命で詳は果たして侯に封じられたが、士瞻自身は茅土を得られなかった。天監二年(503年)直閤将軍、秦・梁二州刺史・都督を経て太子右衞率、さらに西陽・武昌二郡太守として清廉を保った。
  • かつて積んだ鹿皮十一領を数える夢を見て「鹿は禄なり、吾は十一の禄を得るか」と喜んだが、二郡に至って心中これを厭い、病を得ても療治を拒んだ。普通七年(526年)郡で卒し、左衞将軍を贈られ諡は胡。子の吉琨は軍中でこの訃報を聞き一慟して絶命寸前となり、軍令を無視して喪に赴き、孝子として詔で表彰された。