南史卷五十五 列傳第四十五 夏侯詳

夏侯亶、字世龍、夏侯詳の子(?–?、州鎮で没)。梁武帝の挙兵を助け、北伐で壽陽方面の魏軍を破るなど武功を重ね、豫・南豫二州刺史として荒廃した壽春を復興させた。諡は襄。

年表(6件)

出自と齊への出仕

  • 夏侯詳は字を叔業といい、譙郡譙の人である。十六歳で父の喪に遭い、廬墓して三年間哀毀を尽くし、三足の雀が廬に集まったと人々は異とした。宋に仕え新汲令として異績を挙げ、豫州刺史段佛榮が境内に模範として頒示した。別駕に転じ八代の刺史に仕え、州部から称賛された。
  • 齊明帝は詳を器重し、輔政後に詳と裴叔業を招いて連日語ったが、詳は応じなかった。理由を問われた叔業が伝えると、詳は「福の始めともならず、禍の先ともならず」と言い、これがもとで嫌疑を受け、征虜長史・義陽太守に出された。南康王の荆州刺史時代は西中郎司馬・新興太守。

西台の重臣として

  • 梁武帝挙兵に際し、長史蕭穎胄は詳が同意するか懸念し柳忱に相談、柳忱は「詳は求婚中でまだ許されていないので、先に成婚させてから告げればよい」と献策し、夏侯詳の子夏侯夔に穎胄の娘を娶らせて味方につけた。西台建立後は中領軍・散騎常侍・南郡太守として軍国の大事の多くを決した。
  • 穎胄の急逝後、梁武帝と始興王蕭憺が襄陽に留守すると、詳は使者を送り共に軍国に参画、侍中・尚書右僕射に遷り荊州刺史を授けられたが、憺に固く譲った。天監元年(502年)侍中・車騎将軍・寧都縣侯となるも重ねて辞退し、右光禄大夫・侍中に改められ、豊城縣公に改封。
  • 天監三年(504年)湘州刺史として四年間善政を布いた。州城南の峻峰に「刺史が登れば必ず交代する」との言い伝えがあり歴代刺史が避けたが、詳はその地に台榭を建て謙譲の志を示した。後に尚書左僕射・金紫光禄大夫として召されるも道中で病没、武帝は素服して哀を挙げ、開府儀同三司を贈り諡は景。子の夏侯亶が嗣いだ。

夏侯亶――東昏侯期から梁への転換

  • 夏侯亶は字を世龍という。齊永元末、父詳が西中郎南康王司馬として荆州に赴く間、亶は都に留まり東昏侯の聴政主帥となった。崔慧景の乱では防禦の功で驍騎将軍となった。梁武帝挙兵に際し、父詳と長史蕭穎胄が密かに亶を迎え、亶は宣德皇后の令を奉じて南康王に大統を継がせた。建鄴平定後は尚書吏部郎、まもなく侍中として帝に璽を奉じた。
  • 天監六年(507年)南郡太守に累遷。父の喪に服し廬墓で礼を尽くし、遺財を諸弟に譲った。天監八年(509年)司州刺史・安陸太守として喪明けに就任し、豊城縣公を襲封、威恵ある治績で辺境の民を悦服させた。都官尚書・給事中・右衞将軍を経て、吳興太守として惠政を敷き、吏人はその像を描き碑を立てて頌えた。

夏侯亶――北伐の功績と晩年

  • 普通五年(524年)中護軍。普通六年(525年)の北伐で、豫州刺史裴邃と譙州刺史湛僧智が南道から壽陽を攻めたが、裴邃が急死し、亶が節を代わって魏の河間王元琛・臨淮王元彧らと連戦して勝利、しかし詔で班師し合肥堰の完成を待つこととなった。
  • 普通七年(526年)夏、淮堰の水が盛んになり壽陽城が沈みかけると、武帝は北道軍の元樹に彭寳孫・陳慶らを率いさせ、亶も湛僧智・魚弘・張澄らと合流して魏軍を破り、黎漿を攻め、貞威将軍韋放と合流。降した城は五十二、獲た男女は七万五千人に上った。壽陽は豫州として復置され、合肥鎮は南豫州と改められ、亶は豫・南豫二州刺史・都督となり、久しく荒廃した壽春で軽刑薄賦・務農省役に努めて人口を回復させた。
  • 州鎮で卒し、武帝は当日素服して哀を挙げ、車騎将軍・諡「襄」を贈った。州人夏侯簡らの上表で碑と祠が許された。亶は風儀美しく寛厚で、涉猟する文史に通じ応対に優れた。武帝から宗人夏侯溢との親疎を問われた際「服属は疎れやすいゆえ族の遠さを言うに忍びない」と答え、名対と称された。亶は六郡三州を歴任しながら産業を持たず、俸禄は親故に散じ、質素を守り、晩年は音楽を好んで妓妾を蓄えたが華美な服はまとわせず、客が来ると簾越しに演奏させ、簾は「夏侯妓衣」と呼ばれた。子の夏侯誼が豊城縣侯を襲封した。

夏侯夔

  • 亶の弟夏侯夔は字を季龍といい、大匠卿を経て司州刺史・安陸太守となった。壮武将軍裴之礼・直閤将軍任思祖を率いて義陽道から平静・穆陵・陰山の三関を攻略。譙州刺史湛僧智が東豫州刺史元慶和を広陵で包囲した際、援軍の魏将元顯伯を僧智が撃破し、夔は武陽から出て僧智と共に魏軍の帰路を絶ち、慶和は降伏、男女万餘人を降した。顯伯は夜逃げし、梁軍は二万餘人を捕獲した。以後義陽の北道は魏と絶えた。郢州刺史元顯逹の降伏後、北司州が置かれ夔が刺史・司州督となり、保城縣侯に封じられた。
  • 中大通六年(534年)豫州刺史・督豫州。連年の戦で民は困窮していたが、蒼陵に堰を築いて千餘頃を潅漑し、毎年百餘万石の穀物を蓄えて備蓄と貧民救済に充てた。兄亶が先に同職にあり、兄弟して郷里に恩恵を施し、百姓は「我が州に頻りに夏侯を得たり、前は兄、後は弟、布政優優たり」と歌った。七年間の在任で遠近から人が集まり、部曲万人・馬二千匹を擁し、性は奢侈で後房の妓妾は百を数えたが、賢士を軽んじず賓客が絶えなかった。州で卒し、諡は桓。子夏侯譜が嗣ぎ太僕卿に至った。譜の弟夏侯譒は粗暴で、父の旧部曲を率いて州の助防となり、刺史貞陽侯蕭明の府長史となり、明が魏に捕らわれた後は侯景の長史となって侯景の乱で先駆となり、上林館に駐屯して邸第・富室の子女財貨を略奪した。蕭明の四人の妾(章氏・于氏・王氏・阮氏)は皆国色であったが、明が魏に捕らわれると都の邸に戻り、譒は邸を破ってこれを奪った。

魚弘

  • 魚弘は襄陽の人、身長八尺、色白く容姿優れ、常に先鋒として従征し、南譙・盱台・竟陵太守を歴任した。「我が郡には四つの尽くるものがある。水中の魚鼈尽き、山中の麞鹿尽き、田中の米穀尽き、村里の人庶尽く」と語り、恣に享楽し、侍妾百餘人、服飾車馬は当代随一の豪華さを誇り、蹙柏づくりの寝台には銀鏤金花で脚を飾った。
  • 湘東王の鎮西司馬として赴任の途中、食糧が尽き菱の実で飯を作らせ配分したため後の者は一つも得られず、また荒れた洲で数百匹の猿を捕らえ脯にして食した。江陵に着くと物資は再び潤沢になった。後に瑞祥を迎えるため仏像を都に送る任を受け、部曲数百人を錦袍で飾り立てて道を行き、人々の羨望を集めた。夏首を通った際、李抗がその真似をしたため、抗の舅元法僧が抗を杖罪三百に処した。後に新興・永寧太守となり官にて卒した。