南史卷五十二 列傳第四十二梁宗室下 始興忠武王憺
字は僧達。文帝の十一子(?–519年)。武帝挙兵時に荊州の留守を守り、のち益州・荊州刺史を歴任して治水・撫民に功があった。同母兄安成王秀と仲睦まじく、その死を深く悼んだ。薨去して司徒を追贈され忠武と諡された。
年表(11件)
- 天監元年502年安西将軍・始興郡王に封じられる
- 天監四年505年大旱に際し天井の祠に祈り雨を得る
- 天監六年507年大水で壊れた堤を自ら率いて修築する
- 天監七年508年母陳太妃の喪に服し本号のまま召還される
- 天監九年510年都督益州刺史となり学校を興す
- 天監十四年515年都督荊州刺史に遷り、兄安成王秀の喪に私財で葬儀を助ける
- 天監十八年519年侍中中撫軍将軍開府儀同三司領軍将軍に召され、開府黄閣のまま薨去し忠武と諡される
- 天監十七年518年子亮の弟暎、宗室子弟の口策で武帝に才を評価される
- 普通二年521年暎、広信県侯に封じられる
- 普通年間(520-)527年暎、北伐に従軍し老人の逸話を伝える
- 中大通三年531年暎、呉興太守として豊作を得て「嘉穀頌」を作る
出自と経歴
- 蕭憺、字僧達。文帝の第十一子。斉で西中郎外兵参軍。武帝挙兵時は相国従事中郎として南平王偉とともに留守した。斉和帝即位後給事黄門侍郎。巴東太守蕭恵訓の子璝らが荊州に迫り蕭頴冑が急死すると、尚書僕射夏侯詳の議により憺が荊州事を代行、雍州の将吏を率い書で璝らを諭し降した。武帝が建鄴を平定した翌年、荊州刺史都督。天監元年(502年)安西将軍始興郡王。
- 戦後の疲弊した荊州で屯田を広げ力役を減じ、戦死者の家を慰問し民を安んじた。この年、一茎六穂の嘉禾が生じ黄閣に甘露が降った。天監4年(505年)大旱に天井の祠で祈ると巨蛇が現れ、たちまち雨が降り豊作となった。若くして重任を負いながら訴訟を即座に裁いたため滞る案件がなかった。
- 天監6年(507年)大水で堤が壊れると自ら将吏を率いて雨中で修築、水勢が強く皆が恐れる中「王尊も身を挺して堤を塞いだ、私だけが逃れられようか」と堤に登り一日絶食、白馬を殺して江神を祭り自ら民に代わって命を捧げると言うと水は退き堤は完成した。邴洲の数百家が浸水で驚き逃げると、募った救助者に賞金一万を与え数十人が応じ洲人は皆助かった。水死者に棺を、田を失った者に糧種を配った。この年も嘉禾が生じ、民はその恵みを称えた。
- 天監7年(508年)母陳太妃の喪に6日絶食するほど礼を過ごし、武帝が勧め、州任は摂政させた。同年冬、本号のまま召還され、民は「始興王人の父よ、我らを見捨てて水火の急に赴くのはいつ帰るのか」と歌った(荊土の方言で父を「爹」という)。のち中衛将軍中書令領衛尉卿。謙譲を好み賓客と榻を並べて座り時に称賛された。
- 天監9年(510年)都督益州刺史。旧来の守宰が乞丐まがいに村里を巡っていた弊風を厳しく断ち、学校を興し漢の蜀郡太守文翁を祭ったため向学の気風が広まった。天監14年(515年)都督荊州刺史に遷ったところ、同母兄の安成王秀が雍州へ赴く途上で薨じ、憺は喪報に身を投げて泣き数日絶食、私財で葬儀を助け、その悌愛が天下に称された。
- 天監18年(519年)侍中中撫軍将軍開府儀同三司領軍将軍に召され、開府黄閣のまま薨じた。武帝・皇太后は深く悲しみ7度も見舞いに来た。司徒を贈られ諡を忠武とした。薨去前、中山王への改封を夢見て不吉に思っていたところ数旬で没した。荊州の民は薨去を聞いて巷で哭き、嫁娶の吉日をずらして哀悼した。子の亮が後を継いだ。
暎(亮の弟)――経歴と最期
- 蕭暎、字文明。12歳で国子生。天監17年(518年)、宗室子弟に口策を課した際、暎の聡解を武帝が特に問答させ「わが家の千里の駒」と祭酒袁昻に語った。淮南太守を最初に授けられたが兄たちに任官の例がないとして上表し辞退した。普通2年(521年)広信県侯。父の喪に厳冬でも席を敷いて哭き通し穀粒を口にせず冷水のみを飲んだため癥結を患った。太子洗馬。始興王憺の艱難な功業を偲び国封の増封を辞し弟たちに分与することを願い許され、新渝県侯に改封。太妃の喪も3年泣血、服喪明けに呉興太守。郡は不作続きだったが中大通3年(531年)武康など22カ所で野穀が生じ豊作となり、暎は「嘉穀頌」を作って上奏し詔で称賛された。
- 北徐州刺史として弘恕の政を行い民に懐かれ、粟帛を載せて境内を巡り貧者を救済した。徴召されて鍾離に戻る途上、112歳という老人顧思逺を見て事情を尋ねると、7度娶り子12人あるも死に絶え、孫もない末子(60歳)一人を頼るための行役と知り、大いに驚き食を賜ると老人は普通の何倍もの量を食べ、頭に一寸の肉角があった。船で都に運び天子に謁見させると、多くの過去の異事を語り、散騎侍郎に擢用され邸宅を賜った。120歳で卒した。
- 普通中(520-527年)、北伐で穰城を攻めた際、城内に240歳の老人がおり穀物を食べられず曾孫の嫁の乳を飲んでいた話や、荊州上津郷の張元始(116歳、97歳で子を生み、その子に影がなく、死期を悟り山林を歩いて没した)の話も伝わり、湘東王が興味を持ちその枕を留めたという。暎はのち給事黄門侍郎衛尉卿広州刺史を歴任、官にて卒し諡を寛侯とした。
曄(暎の弟)――経歴と最期
- 蕭曄、字通明。美姿容で談吐に優れ、安陸侯に初封。憺に特に鍾愛され、憺は「その才が発揮されすぎることを深く憂う、長命でないのではないか」と語ったという。憺の病を侍し、憺の薨去に扶けられねば起てぬほど哀慟した。服喪明けに上黄侯に改封、兼宗正卿。簡文帝の監撫就任に儲徳頌を献じ給事黄門侍郎、晋陵太守。才気あふれ言論も激しく、簡文帝に特に厚遇され、新渝(暎)・建安・南浦とともに「東宮四友」と呼ばれた。晋陵赴任時の旱魃には自ら祈祷し雨を得、郡の雀林村の猛獣害も治政6年で絶えた。
- 郡で病に伏したまま長年官事が滞り、有司が「言行相違を替と諡す」と定め、替侯と諡された。
史論
- 古来の帝王は創業に当たって必ず血族を広く封じ、州国を割いて子弟を建てた。梁武帝も先例に倣い、蕭景のような才弁の親族も重用された。臨川王宏は器量に見合わぬ重責を得ながら、しばしば法度を乱し軍を撓ませ、梁の統治の乱れを象徴した。正徳の悪行は早くから逆心を示し、比するに斉の襄公や呉王濞のごとくで、勢いには及ばぬまま侯景の禍を招く階梯となり、国を滅ぼし身も滅んだ。それに比べ安成王・南平王・鄱陽王・始興王はいずれも名跡が著しく美しい。これも梁の一族における間然すべからざる点であろう。