南史卷五十二 列傳第四十二梁宗室下 南平元襄王偉

字は文達。文帝の八子(?–530年)。武帝挙兵に呼応し雍州の留守を守るなど功があり、南平郡王に封じられた。学を好み賢士を重んじ梁の諸王邸随一の盛観を誇ったが、晩年は仏理・玄学に傾倒した。子の恪・恭も地方官として知られる。

年表(9件)

出自と経歴

  • 蕭偉、字文達。文帝の第八子。幼くして聡明で学を好み、斉では晋安王驃騎外兵参軍。武帝が雍州にあって天下の乱を予見し、偉と始興王憺を迎えようとしたところ、二人はすでに沔水を渡っていたと聞き、武帝は喜んで「阿八(偉)が着けば、私はもう安心だ」と言った。挙兵時は雍州の州府の事を留守として司った。
  • 武帝が郢城を落とし、尋陽を経て建鄴を包囲すると、巴東太守蕭恵訓の子璝と巴西太守魯休烈が挙兵して荊州に迫り、蕭頴冑が憂憤のあまり急死した。西朝が動揺し荊州から偉に徴兵すると、偉は州府の将吏を割いて始興王憺に付け派遣し、璝らを降した。
  • 斉和帝の詔により雍州刺史都督となり、天監元年(502年)建安王に封じられた。武帝の東下の軍資が不足した際、偉は襄陽の寺の銅仏を毀して銭とし、僧侶の蓄財を奪ったため後に悪疾を患ったとされる。
  • 天監13年(514年)左光祿大夫に累進、親信400人・歳給米萬斛・薬直240萬・厨供月20萬・両営雑役200人を加えられたが、病のため出仕せず俸禄のみを受けた。天監15年(516年)、生母陳太妃の喪に過度に服し、武帝がしばしば見舞ってなだめたが病が重くなり、改封を求め天監17年(518年)南平郡王に改封、侍中左光祿大夫開府儀同三司。大通4年(530年)中書令大司馬で薨じ、侍中太宰を贈られ、諡を元襄とした。
  • 端雅で規律を保ち、学を好み誠実で、賢者を敬い士を重んじたため四方の名士がこぞって集まった。失明後も接客を続けた。斉代の青溪宮を改めた芳林苑を天監初年に賜与され、庭園を穿ち築いて果木珍奇を極め、遊客省を立てて四季を通じ賓客と遊んだ。梁の諸王邸で並ぶもののない盛観であった。
  • 情け深く困窮者を憐れみ、腹心を里巷に遣って貧困者を救済した。平原の王曼頴が没し葬儀の費用もない友人江革が哭いていたところ、偉が使いを送り喪事を助けた。厳寒積雪の折には人を遣り薪米を配った。
  • 晩年は仏理・玄学に傾倒し、二暗義・製性情幾神論等を著した。義僧寵・周捨・殷鈞・陸倕らの碩学も屈服させえないほどであった。朝廷の得失を正すこともあったが、子姪の邪僻を訓誘できず、それを憂いながら没した。梁の政治はここから次第に衰えたという。世子恪が後を継いだ。

恪――経歴

  • 蕭恪、字敬則。弘雅で風采がよく、雍州刺史となったが年少で庶務に疎く、群下に任せたため民が賄賂を重ねねば訴えが通らなかった。賓客の江仲挙・蔡薳・王臺卿・庾仲容の4人が重用され蓄財に励んだため、民間で「江千万・蔡五百・王新車・庾大宅」と歌われた。武帝の耳に入り「主人はぼんやりして客に及ばない」と言われ、盧陵王に代えられた。恪は帰京し武帝に世評を問われ大いに恥じ、以後学問に励み、歴任地で善政を称された。
  • 太清年間(547-549年)、郢州刺史。侯景の乱で邵陵王が郢に至ると恪は出迎えて位を譲ろうとしたが邵陵王は受けなかった。王僧辯が郢に至ると恪は荊州に帰り、元帝は尚書令司空とした。賊平定後は揚州刺史。帝がまだ遷都しなかった時期、宗室の令誉ある恪を先に鎮に帰らせた。大宝3年(552年)長沙で薨じ、まだ鎮に至らなかった。太尉を贈られ、諡を靖とした。

恭(恪の弟)――経歴

  • 蕭恭、字敬範。天監8年(509年)衡山県侯。かつて楽山侯正則が罪を得た際、勅で諸王を戒めたが元襄王(偉)には「お前の子は過ちなく皆義方がある」と言われた。監南徐州事を歴任中、衡州刺史武会超が在州で子姪が横暴を働き、州人朱朗が徒党を組み反乱を起こした。武帝は恭を刺史に任じ、朗が始興を囲んでいた際、恭は服を緩めて賊に近づき恩信を示すと賊は恭の勇に服し三舎退いた。追撃を求める吏に「賊は苛政のために叛いたのであり陳勝呉広の心はない、急げばかえって団結する」と諭し、翌日朗は使いを送って降伏、恭は節を杖として受け入れ一切問わなかった。ただちに始興太守張宝生と会超の弟の子・子仁を軍門で斬った。有司は恭が罪人を放免し二千石を専断で殺したことを弾劾したが、詔で赦された。
  • 湘州刺史に遷り、吏事に通じ称えられたが、性は華美を好み邸宅を広く営み、賓客との酒宴を好んだ。元帝がまだ藩にあり著述に励んでいた頃、恭は「上に眠りながら書を著しても千秋万歳の後まで誰が伝えるか、清風・朗月を楽しむに如くはない」と語った。寧蛮校尉雍州刺史に任ぜられ赴任、簡文帝は若い頃から恭と親しく手令で政事を励ました。恭の政績により百姓が城南に頌徳碑を立てることを願い出て許され「政徳碑」と名付けられたが、夜に数百人の叫び声がして翌朝碑が一尺涌き上がっていた。大柱で押さえても下がらず、酒脯を供えて見張らせたが再び見張りが目を離すと消えていた。恭はこれを不吉として嫌った。
  • 武帝が雍州を辺鎮として数州の粟を蓄えていたが、恭は官米を私邸に取り込み、典籤陳保印も百姓を侵害した。荊州刺史廬陵王の上奏により召還され、白衣で朝謁したところ武帝は激怒し「陳保印を返さねば汝を白くする(処刑する)ぞ」と迫った。しかし保印はすでに湘東王のもとへ逃げ姓名を袁逢と変えていたため、恭は用いられずに終わった。侯景の乱で城中に卒し、詔で本封を回復、元帝が僖侯と追諡した。

静(恭の子)

  • 蕭静、字安仁。若くして美名があり宗室の後進と称された。文才篤学、財に不足せず経史を多く集め自ら校訂した。何敬容が娘を娶わせようとしたが、静はその権勢が盛んすぎることを忌んで拒み、時論に称賛された。戯笑を好み人物を軽々しく論評したため軽んじられた面もあった。給事黄門侍郎、簡文帝に深く愛された。太清3年(549年)卒し侍中を贈られた。

祗(恭の弟)

  • 蕭祗、字敬謨。美風儀で幼くして令誉があった。天監中、定襄県侯。北兖州刺史を歴任、侯景の乱で従弟の湘潭侯退と挙兵を謀ったが、州人が城に叛き景に応じたため東魏へ亡命した。