南史卷五十二 列傳第四十二梁宗室下 安成康王秀
字は彦達。文帝の七子(?–?)。武帝挙兵に応じ建康平定に功があり、その後は江州・荊州・郢州刺史など各地で善政を挙げ、建安王とともに「二安」と称され人望を集めた。雍州刺史への赴任途上で薨去し、司空を追贈され康と諡された。
出自と経歴
- 安成康王蕭秀、字彦達、文帝(蕭順之)の第七子。13歳のとき呉太妃(生母)が亡くなり、母を同じくする弟の始興王憺(当時9歳)とともに深く喪に服し、文帝自ら粥を与えて哀れんだ。側室の陳氏とその子2人を、実子同様に慈しんだ。
- 斉に仕えて太子舎人となり、長沙王懿が崔慧景の乱を平定したのちは尚書令として朝政の要職を占めた。衡陽王暢が衛尉として鍵を管理していた際、東昏侯の乱行に対し懿へ廃立を勧めたが懿は従わなかった。東昏侯側近は懿の勲功を恐れて讒言し、諸親族も身構えた。
- 政変が起きると臨川王宏以下の諸弟姪は民間に身を隠したが、桂陽王融のみが禍を被った。武帝の軍が新林に至ると、秀ら諸親族はこぞって軍に投じ、建康平定後は南徐州刺史となった。
地方官としての治績
- 天監元年(502年)、安成郡王に封じられた。京口は崔慧景の乱以来兵禍が続き民戸が流散していたが、秀は撫育に努め、飢饉の年には私財で百姓を救済した。
- 天監6年(507年)、江州刺史。出発に際し丈夫な船を斉舫に充てようとした部下に「士を愛さず財を愛するのか」と言い、丈夫な船は従者に、弱い船を荷物用にしたところ、風に遭って荷物船が壊れた。前任刺史が処士陶潜の曾孫を里司にしていたと聞き、「陶潜の徳は及ばすべきでない」と嘆じ、即日西曹に招いた。夏の増水期に橋の通行料を取ろうとした役人を戒め、無償で船を提供した。
- 天監7年(508年)、母(陳太妃)の喪に服したのち荊州刺史。学校を興し隠逸を招き、河東の韓懐明・南平の韓望・南郡の庾承先・河東の郭麻らを召した。この年、魏の縣瓠城で反乱が起き豫州刺史司馬懐悦が殺され、司州刺史馬仙琕が荊州へ援兵を求めると、秀は迅速に兵を派遣した。沮水の氾濫で田が損なわれると、穀二萬斛で民を救済し、貧しい単身の吏百余人を長史蕭琛に選ばせて一日で帰休させた。旱魃には自ら祈って雨を得、武寧太守が弟に殺された事件では、偽って士人の反乱と称した者の姦計を見抜いた。
- 天監13年(514年)、郢州刺史。婦人にまで労役を課すほど賦斂が重い土地であったが、秀は倹約に努めて游費を省き、夏口の戦死者の骸骨を黄鶴楼下で弔い埋葬した。毎冬、綿入れを凍える民に施した。司州の叛蛮田魯生・魯賢・超秀が蒙籠に拠って投降した際には、互いに反目する三者を巧みに慰撫して用いた。
- 雍州刺史に遷る途上で薨去。武帝は深く悼み、南康王績を遣わして道中で出迎えさせた。郢州の民は秀の病を聞いて助命を請い、薨去後は四州の民が喪服代わりに裳を裂いて白帽とし、哀哭して見送った。都に至ると司空を贈られ、諡を康とした。
人物
- 容儀が美しく、朝廷では百官の注目を集めた。仁恕の性で喜怒を色に出さず、従者が誤って愛玩の鵠を石で殺した際も「鳥のために人を傷つけようか」と咎めなかった。厨人が食事をこぼしても叱らなかった。
- 建安王・安成王(秀)は特に人物を愛好し、「二安」と呼ばれ古の四豪に比された。学術に意を用い、経籍を集めて学士平原の劉孝標に類苑の編纂を命じたが、完成前に世に行われた。
- 武帝とは布衣の兄弟であった昔から、君臣となってからも小心に敬い、武帝は特にこれを賢とした。とりわけ始興王憺と親しく、憺が荊州で得た俸給を分けても秀は当然のように受け取り、兄弟の睦まじさは当時評判となった。
- 佐史の夏侯亶らが墓碑の建立を上表し許された。当代の高才、東海の王僧[孑焉]・呉郡の陸倕・彭城の劉孝綽・河東の裴子野が各々碑文を作り、いずれも実録と称されたため4基の碑がすべて建てられた。世子機が後を継いだ。
機――経歴と最期
- 蕭機、字智通。湘州刺史のとき州で薨じた。容姿が美しく吐納に長じ、家に多くの書を蔵し博学強記であったが、遊興を好み武力を尊び、士人を遠ざけ小人を近づけたため、州では専ら聚斂に努め政績がなく、しばしば弾劾された。葬送に際し有司が諡を請うと、「王が女色を好み政をおこたった」として煬と諡された。詩賦数千言を著し、元帝がこれを集めて序をつけた。子の操が後を継いだ。
推(機の弟)――経歴と最期
- 蕭推、字智進。若くして清敏で文章を好み、簡文帝に深く親愛された。普通6年(525年)、王子として南浦侯に封じられ、淮南・晋陵・呉郡の太守を歴任した。赴任先は必ず日照りとなり、呉人は「旱母」と呼んだ。侯景の乱で東府城を守り、城が陥落すると節を握ったまま死んだ。