南史卷五十一 列傳第四十一梁宗室上 桂陽簡王融

経歴

  • 融は文帝の五子。斉に仕え太子洗馬となり、宣武王懿と共に殺害された。天監元年(502年)撫軍大将軍を追贈され桂陽郡王に封じられ、簡と諡された。子がなかったため詔により長沙宣武王の第九子象を嗣とした。

融の嗣子象

  • 象、字は世翼。挙止は閑雅で交遊を控え、産みの母への孝行が知られた。丹陽尹となり、深宮に育ちながら初めて庶政に携わっても失徳がなく朝廷に称えられた。湘州刺史・都督に遷った際、湘州には古くから猛獣が多く暴れていたが、象の在任中にちょうど四匹の猛獣が郊外で死に、古老は皆その徳の感応と称えた。太常卿・侍中を兼ね秘書監に遷り、薨去して敦と諡された。子の慥が嗣いだ。

象の子慥

  • 慥、字は元貞。信州刺史として威と恵を兼ね備えた。太清二年(548年)台城への援軍に赴くよう勅を受け蕃地へ戻ったが、まもなく張纉に讒言され、湘東王に「河東王・桂陽王の二藩が両側から江陵を襲おうとしている」との書が送られると、湘東王は水陸両道から急いで荆州に至った。慥はなお江津に軍を置いていて気に留めなかったが、湘東王が到着すると呼び出して慰撫した。後に慥は省内に留め置かれたが、慥は禍が身に迫るのを悟り醜い言葉を吐いたため湘東王は大いに怒り、獄に下して殺害した。