出自と経歴
- 字は休烈、平原鬲の人、一字承烈。その先祖は呉の太伯の裔で、百里奚の子孟明がその名を姓としたのがその始まりという。祖父玩は州中従事、父畧は給事中。僧紹は経学に明るく儒術を修めた。宋の元嘉年間(424-453年)に再び秀才に挙げられ、永光年間(465年)鎮北府から功曹に招かれたが、いずれも就かなかった。長広郡の嶗山に隠れ、門弟を集めて学問を教えた。北魏が淮南を落とすと江を渡って避難した。昇明年間(477-479年)斉の高帝が太傅であったとき、僧紹・顧歓・臧栄緒を旌幣の礼をもって記室参軍に招いたが、僧紹は赴かなかった。弟の慶符が青州の官となったが僧紹は食糧に窮し、慶符に従って鬱洲へ移り、弇楡山の栖雲精舎に住んで水石を楽しみ、州城に一度も入らなかった。泰始末年(471年頃)岷・益の地で山崩れと淮水の枯渇が起きた際、済郡にいた僧紹はひそかに弟に「天地の気は序を失わない、陽が伏して発散しなければ、陰が迫って蒸せず、山崩れ川枯れの変異が起こる。伊水・洛水が枯れて夏が滅び、黄河が枯れて殷が滅び、三川が枯れ岐山が崩れて周が滅び、五山が崩れて漢が滅んだのはそのためだ。国は必ず山川によって固められる、山川が変異すれば亡国は間近い。今の宋の徳はかの四代の末期に等しい、この言葉は心に留めて口外するな」と語った。果たしてその通りになった。斉の建元元年(479年)冬、正員郎に徴されたが病と称して就かなかった。その後帝は崔思祖への書で僧紹と慶符を共に呼び戻させようとした際、僧紹は「周の粟を食べぬと言いながら周の薇を食べたという古人の議論もある、今さら何を語ろうか、笑い話とするまでだ」と述べた。慶符が任を退くと僧紹も共に帰り江乗の摂山に住んだ。僧紹は沙門釈僧遠の高徳を聞いて定林寺を訪ねた。高帝が寺を訪れ僧紹に会おうとした際、僧遠は僧紹に「天子がおいでになったら、居士はどう対応するか」と問い、僧紹は「山野の民たる私はいっそ壁を破って逃げるまでだ、もし辞退できなければ戴公(戴顒)の故事に倣うまでだ」と答えた。そのまま摂山に逃げ帰り栖霞寺を建てて住んだ。高帝はこれを大いに残念がった。かつて戴顒が窓辺で悠然と過ごし山人の服をまとったのに倣ったものであった。高帝は後に慶符に「そなたの兄が節義を高く保つのは、堯にとっての巣父・許由のようなものだ、朕は隠者を慕う心が篤い、その道は絶えても風雲は通うというではないか」と語り、竹根如意と筍籜冠を賜った。隠者たちはこれを栄誉とした。渤海の封延伯という高潔の士はこれを聞いて「明居士は名声を得るのが遅れれば遅れるほどかえって高まる、まさに宋斉の儒者の第一人者だ」と嘆じた。永明年間(483-493年)国子博士に徴されたが就かず、没した。
兄の僧胤・弟の僧暠
- 僧紹の長兄僧胤は玄学を語るのに巧みで、宋に仕え江夏王義恭の参軍となり、王は特別に榻を設け徐孺子になぞらえた。位は冀州刺史に至った。子の慧照は元徽年間(473-477年)斉高帝の平南主簿となり桂陽王を討つ戦に従い、驃騎中兵参軍に累進し伯玉と共に領直を務めた。建元元年(479年)巴州刺史となり蛮族を懐柔し、上は益州刺史に任じようとしたが着任前に没した。僧胤の次弟僧暠も学を好み、宋の大明年間(457-464年)二度魏に使いした。当時、司空劉誕が誅殺されたばかりで、孝武帝が「もし広陵の事を問われたらどう答えるか」と問うと、僧暠は「周の管叔・蔡叔、漢の淮南王のようなものです」と答え、帝は大いに喜んだ。魏に至ると魏側が「そなたがこの使命を帯びるのは、上国に人材がいないからか」と問うたのに対し、僧暠は「聡明で人材が特に優れ、袂を挙げれば幕のように連なるほど多く、市井の民でさえ従僕を必要としないほどです。斉の善悪は晏子の言うように、それゆえに再びこの庭を辱めることになったのです」と答えた。位は青州刺史に至った。
子孫
- 僧紹の子元琳・仲璋・山賓はいずれも家業を継いだが、山賓が最も名を知られた。
明山賓――出自と経歴
- 字は孝若、七歳で玄理を語り、十三歳で経伝に博通し、喪に服して礼を尽くした。奉朝請として出仕した。兄仲璋が痼疾を患い家計がしばしば困窮したため、山賓は俸禄を求めて仕官し、広陽令となったがまもなく辞した。詔により公卿が人材を推挙した際、左衛将軍江祏が山賓の才を薦めたが、学問を重んじない斉明帝は「山賓は書物ばかり語ると聞く、官が務まろうか」と祏に言い、結局用いられなかった。梁の建国後、右軍記室参軍に累進し吉礼を掌った。当時初めて五経博士が置かれ、山賓が首席に選ばれ、中書侍郎・国子博士・太子率更令・中庶子を歴任した。天監十五年(516年)持節都督縁淮諸軍事・北兖州刺史として出鎮。普通二年(521年)太子右衛率に召され給事中を加えられ、御史中丞に遷ったが公事により黄門侍郎に左遷された。四年(523年)散騎常侍となり、東宮に新設された学士にも山賓が就き、まもなく本官のまま国子祭酒を兼ねた。かつて山賓が州にあったとき、管轄の平陸県が不作となったため上申して倉米を放出し百姓を賑わせたが、後に刺史が州の帳簿を検めた際に紛失が見つかり、山賓の減損とされ、有司が責任を追及して邸宅を没収した。山賓は弁明せず、あらためて土地を購入し邸宅を建てた。昭明太子はその家がまだ完成しないと聞き「明祭酒は大藩を治め旌旗を掲げ高位に就いているが、常に家計は貧しく、家を建てられないと聞く」と令を発して薄志の助けを送り、詩を添えた。「平仲(晏子)は昔から奇特と称され、伯夷・叔斉もかつて美徳を称えられた。令徳は伊尹の賢に並び、東秦にはもとより多くの士がいる。家を建てるのは道端にはせず、住まいを仁里に置く。庚桑楚にはまだ係累があり、原生(原憲)も今なら容易に模すことができよう。必ずや三径を訪れる客が来て、五経の士を招くだろう」という内容であった。山賓は篤実な性格で、家計が困窮していた折に飼っていた牛を売った際、代金を受け取った後で買主に「この牛はかつて蹄の病を患い治療してからまだ日が浅い、いずれ再発するかもしれないので言わずにはいられなかった」と告げ、買主は慌てて代金を取り戻しに来た。処士の阮孝緒はこれを聞いて「この一言は世の風俗を純朴に戻し、澆薄を止めるに足る」と称えた。五年(524年)また仮節として北兖州事を摂り、後に官にて没した。侍中を贈られ、諡は質。
- 山賓は長く学官を務め、その教導は大いに益があったが、性格はやや大らかで諸生と親しく交わり、皆から慕われた。著書に『吉礼儀注』二百二十四巻、『礼儀』二十巻、『孝経喪服義』十五巻がある。子の震、字興道も父の業を継ぎ、太子舎人・尚書祠部郎・餘姚令を歴任した。山賓の弟少遐、字処黙も名があり、都官尚書に至った。簡文帝は人に「私は明が尚書になったこと自体を喜ぶのではなく、朝廷が人材を得たことを喜ぶのだ」と語った。後に青州刺史を拝したが、太清の乱で魏に逃れ、北斉に仕えて太子中庶子として没した。子は罕、司空記室となった。明氏は江南に渡ったのは遅かったが、宋から梁にかけて刺史となった者は六人に及んだ。