南史卷四十七 列傳第三十七 劉休

劉休(字弘明、沛郡相の人)。占術と技芸に通じ宋明帝に寵愛された近臣。齊に入っても御史中丞などを歴任し、書法では王羲之の書風の再興に関わったことでも知られる。

年表(3件)
  • 泰始初年諸州反乱に際し筮術で明帝の勝利を予知し、静観して難を免れた
  • 齊建元初御史中丞となった
  • 建元四年豫章内史となり、その地で卒した

出自と初期

  • 劉休、字弘明、沛郡相の人。初め駙馬都尉。宋明帝が藩にあった頃、休は湘東國常侍であったが帝には知られなかった。祖父の南郷侯を襲爵。
  • 友人謝儼が丞相劉義宣の反乱に連座した際、これを匿った罪で尚方に繋がれたが、孝武帝の崩御により釈放された。泰始初年の諸州反乱の際、筮術で明帝の勝利を予知し静観して難を免れた。

明帝の寵臣として

  • 尚方にあった頃、尚方令呉喜にその才を愛され、後に呉喜の輔師府錄事參軍となり、呉喜の推挙で明帝の側近となる。桂陽王征北參軍を経て、飲食・技芸に通じたことから寵愛され殿内に長直した。
  • 後宮の妊婦の男女を占わせれば的中し、明帝が妬み深い女性を憎み、尚書右丞勞彦遠が妻の嫉妬による顔の傷を苦にした際、明帝は「私が処置してやろう」と言い、実際に薬を賜って彦遠の妻を殺させた。休の妻王氏も嫉妬深く、明帝は休の妾に杖二十を与えさせた上、休の宅の裏に小店を開かせ王氏に石けん豆や箒を売らせて辱めた。
  • 員外郎・領輔國司馬・中書通事舍人・帶南城令、後に都水使者・南康相を歴任し政治の議論には巧みであったが、郡内では特筆すべき治績はなかった。

斉朝での晩年

  • 齊建元初、御史中丞。宋代六十年の記録では同職についた者が五十三人にのぼることを挙げ「自分にはこの任は過分」として辞去を願い出た。建元四年、豫章内史となり卒した。
  • 宋末、指南車の製作に際し高帝は休の理知を認め王僧虔と共に試作を監督させた。また元嘉年間以来、羊欣が王献之(子敬)の正隷書を重んじ、王羲之(右軍)の書風がやや軽視されていたが、休が右軍の書法を好んだことから再び流行するに至った。