南史卷四十七 列傳第三十七 虞玩之
虞玩之(字茂瑶、會稽餘姚の人)。刀筆の才で知られ、宋末から齊にかけ度支・戸籍事務に通じた実務官僚。齊建元年間、黄籍(戸籍)偽造の弊を正す改革を主導し、老病により致仕して郷里で没した。
出自と気骨
- 虞玩之、字茂瑶、會稽餘姚の人。祖父虞宗は晉の尚書庫部郎、父虞玫は通直常侍。
- 刀筆(文書事務)に通じ書史を博く渉猟した。宋に仕えて烏程令となり、路太后の外戚朱仁彌の罪を法に照らして裁いたため太后の怨みを買い孝武帝により免官された。元徽中、尚書右丞。齊高帝が参政すると玩之に書を送り度支の才を頼み、玩之は府庫の窮状を上表した。
- 高帝が東府にあり朝廷が敬意を表す中、玩之は破れた木履のまま出仕し、高帝がその古さを問うと「初任の際に買い三十年履いている、貧士ゆえ新調できぬ」と答えた。高帝は感嘆して新履を賜ったが、玩之は「今日の賜りは既に過分、古い簪や席と同じく捨てられぬ」と辞退し、高帝はこれを善しとした。
黄籍改革
- 驍騎諮議參軍となり、霸府開設時の応対に任遐と並び称された。黄門郎に遷る。宋代以来の戸籍(黄籍)の偽造・詐欺が横行していたため、高帝即位後、玩之と驃騎將軍傅堅意に検定を命じた。
- 建元二年、詔で戸籍偽造の弊(戸が存するのに文書が絶えている、人がいるのに死んだと偽る、賦役を逃れるため疾病と称する等)を憂え、諸臣に対策を求めた。玩之の上表は多く採用され、朝廷は校籍官を置き文書検査を強化したが、年を経ても収まらず賄賂も横行し百姓の怨みを招いた。
- 富陽の唐㝢之が墓相の家業から「墓に王気あり」と山中で金印を得たと称して人心を惑わし、永明二年冬に富陽・錢唐を陥れ僭号し太子を置くなど反乱を起こした。会稽太守王敬則の留守を突いて偽会稽太守孫泓に山陰を襲わせたが、郡丞張思祖の命で楊休武がこれを浦陽江で撃破。朝廷軍も錢唐で㝢之を一戦のもとに撃破し、諸郡県を平定した。
- 凱旋後、官軍による百姓への強奪が発覚し、軍主前軍將軍陳天福が棄市に処された(天福は武帝寵愛の勇将であった)。内外はこれにより粛然となった。
晩年
- 久しく官にあり老病により上表して致仕を願い出て許された。人物評価が厳しく、宋末に王儉が推挙した孔逷が魏への使者として玩之と論争して恨みを買った。帰郷の際、王儉は見送らず、中丞劉休が親友への書簡で「虞公は海隅に隠棲し古人の美風に倣うが、都からの見送りはいかにも寂しい」と評した。
- 数年後、故郷で卒した。後に員外郎孔瑄が王儉に会稽の五官の職を求めた際、王儉は皁莢(石けん豆)を投げ捨てて「あなたの郷里の習わしは悪い、虞玩之は死んでもなお人を煩わせる」と評した。