南史卷四十七 列傳第三十七 胡諧之
胡諧之(豫章南昌の人)。齊武帝の信任厚い腹心で、識見に優れ人事の動静を見通したが、梁州刺史范栢年への讒言など権勢の負の面も伝わる。永明十一年に没した。
出自と武帝の信任
- 胡諧之、豫章南昌の人。祖父胡廉之は書侍御史、父胡翼之は州辟に応ぜず。
- 宋に仕えて邵陵王左軍諮議。齊武帝が江州にあると別駕として重用された。建元二年、給事中・驍騎將軍。
- 武帝は諧之を貴族との縁組で厚遇しようとしたが、家人の傒(南方方言)訛りを正すため宮中から女官を遣わして子女に教えさせた。二年後、武帝が「もう言葉は正されたか」と問うと、諧之は「宮人が少なく家人が多いため、正されるどころか宮人の方が傒語になってしまいました」と答え、武帝は大笑いしこれを朝臣に語った。
累進と晩年
- 永明五年、左衛將軍・加給事中。風采よく人付き合いに長け、旧恩により朝士との交遊が広かった。六年、都官尚書に遷る際、武帝から「江州には何人の侍中がいたか」と問われ「近世では程道惠一人のみ」と答え、武帝は「二人目にしよう」と言ったが尚書令王儉の反対で太子中庶子・領左衛率に転じた。
- 識見に優れ、朝廷の官職の欠員や異動を密かに予見してその通りになったため虞悰にも称された。権勢を得てから求めが多く、梁州刺史范栢年に良馬を求めたところ栢年は不快に思い、使者に「馬は狗ではないから際限のない求めに応じられぬ」と伝えさせ、栢年は諧之を「傒狗」と罵ったことが使者を通じて漏れ伝わり、諧之は激怒した。
- 王玄邈が栢年に代わる際、栢年が病と称し赴任を遅らせたため、諧之は武帝に「栢年は山川の険を恃み一州を専らにしようとしている」と讒言。栢年が下ると武帝は不問に付そうとしたが、諧之は更に「獣を捕らえて放つがごとし」と迫り、栢年は結局賜死された。
- 十年、度支尚書・領衛尉に転じ、翌年卒し肅侯を諡された。
附伝(范栢年)
- 范栢年はもと梓潼の人、土断で梁州華陽郡に属した。州将劉亮の使者として都に上り宋明帝に見えた際、廣州貪泉の故事を問われ「梁州には文川武郷、廉泉譲水がある」「私の住まいは廉譲の間にある」と答え、その受け答えの巧みさを称えられた。内外の官を歴任し梁州刺史で終わったが、最期は前述のとおり胡諧之の讒言により賜死された。