南史卷四十七 列傳第三十七 虞悰
虞悰(字景豫、會稽餘姚の人)。幼くして孝行で知られ、齊武帝が微賤の頃から親交を結んだ旧友。料理に通じた風流人としても知られ、明帝擁立への協力を固辞して節を守った。
出自と孝行
- 虞悰、字景豫、會稽餘姚の人。祖父虞嘯父は晉の左戸尚書、父虞秀之は黄門郎。
- 幼くして孝行で知られ、十二三歳の時に父の病に際し昼夜戸外に伏して容態を問い、危篤の報に百余日嗚咽し続けた。父の喪では二枚の麦粥のみを食した。
宋・斉に仕えた経緯
- 宋に仕えて黄門郎。宋明帝が山陽王劉休祐を誅した際、葬儀に厚い雪の中、参列したのは悰ただ一人であった。
- 齊武帝がまだ貧しかった頃から親しく交わり物を分け与え、常に共に乗車するなど武帝の恩義を受けた。
- 齊建元初、太子中庶子から豫章内史に累遷。料理の才に優れ、豫章王蕭嶷の饗宴で料理の不足を問われた際「黄頷(すっぽん)の吸い物だけがない」と答えた逸話が伝わる。
武帝の信任と晩年
- 太子右率に累遷。永明八年の大水の際、百官が戎服で太廟を救う中、悰は朱衣で公式の儀装のまま参じ咎められたが、武帝は旧知の情から不問とし、「祖業を復させよう」と侍中に転じさせた。
- 祠部尚書となり、武帝が芳林園で味を求めた際、悰の献じた粽や肴が大官の鼎味に勝るほどであった。酔い覚ましの鯖の一夜漬けを献じたのみで秘伝の方は明かさなかった。
- 欎林王(廢帝蕭昭業)の代、大匠卿を兼ねて陵の造営に携わったが局下の牛酒を受けて免官。隆昌元年、白衣のまま職に復す。欎林王廃立の際「王・徐(王晏・徐孝嗣)が縛袴で天子を廃するとは道理があろうか」と密かに嘆いた。
- 延興元年、右軍を領す。明帝(蕭鸞)即位に際し病と称して参内せず、王晏が廃立の事情を示して協力を求めたが「主上聖明、公卿の力で新政を輔けるべきで、老骨の私には委ねられぬ」と固辞し慟哭した。朝議で咎めようとする声もあったが僕射徐孝嗣が「古の遺直」と庇い沙汰止みとなった。
- 病篤しとして東に帰り、詔で百日の暇を賜り、給事中光禄大夫・正員常侍を経て卒した。人との交わりに篤実で、世にその人柄を称えられた。