南史卷四十七 列傳第三十七 荀伯玉
荀伯玉(字弄璋、廣陵の人)。宋に仕えたのち齊高帝に信任され、密事を掌る腹心として権勢をふるったが、武帝(蕭賾)との確執を経て永明元年、誣告により誅殺された。
出自と初期
- 荀伯玉、字弄璋、廣陵の人。祖父荀永は南譙太守、父荀闡之は給事中。
- 宋に仕えて晉安王劉子勛の鎮軍行參軍となり、泰始初年に子勛の挙兵に従うが敗れて都に戻り、占いを生業とした。
高帝との出会いと信任
- 齊高帝(蕭道成)が淮陰を鎮すると冠軍刑獄參軍となる。高帝が宋明帝に疑われ黄門郎に召された際、平澤の群鶴を見て詩を詠み伯玉に示し、意中を託した。
- 伯玉は高帝に勧めて数十騎を魏の境に派遣し標識を置かせ、魏が数百騎で境を巡回する事態を作り出した。高帝は事が漏れることを恐れたが、伯玉の占いで無事本任に復し、以後厚く信任された。
- 高帝の故吏、竺景秀が罪により作部に繋がれた際、伯玉が幾度も見舞い改心を説いたことで高帝がこれを許し、景秀は後に忠信の士となった。
- 高帝が南兖州に赴くと伯玉も鎮軍中兵參軍・廣陵令となる。淮陰にあった頃と泰始七年に高帝の将来の栄達を暗示する夢を見、後に高帝が桂陽王を破り(元徽二年)蒼梧王を廃した(元徽五年)ことで夢が的中したとされた。
- 高帝の驃騎中兵參軍・濟陽太守となり、覇業樹立に尽力。齊建元元年、南豐縣子に封ぜられ豫章王の司空諮議・太守を兼ねた。
張景真事件と武帝との確執
- 武帝(蕭賾)は東宮にあって高帝と共に覇業を築いた自負から朝事を専断し、寵臣の張景真も僭侈をきわめた。武帝が陵墓参拝から戻ると景真が白服で画舟に乗り胡床に座す様子が太子に見紛われるほどであった。
- 驍騎將軍陳𦙍叔が景真と太子の得失を訴えていたところへ、伯玉が武帝陵参の後に密告し、高帝は激怒。もとより豫章王蕭嶷への寵愛や南郡王兄弟の存在から高帝には太子交替の意もあったため、高帝は文恵太子・聞喜公子良を遣わして詰責し、景真を誅殺させた。
- 𦙍叔は事の発端を伯玉によるものと武帝に告げたため、武帝は憂懼し月余りも病と称して出仕せず、高帝の怒りも解けなかった。王敬則が仲裁に入り、高帝を東宮に伴い諸王を集めて宴を催し、ようやく事態は収まった。
失脚と最期
- 高帝は伯玉の忠勤をますます信任し軍国の密事を掌らせ、権勢は朝廷に及んだ。母の喪に服した際には司徒褚彦回・衛軍王儉ら朝士が弔問に殺到し、中書舍人徐希秀が哭を制止して客を絶たせるほどの盛況で、「千の勅命より荀公一言」と評されるほどであったため、武帝の伯玉への怨みは深まった。
- 高帝は臨終に際し伯玉を武帝に託した。武帝即位後、伯玉は友人垣崇祖(江西に田業を持つ)との関係を疑われ動揺したが、武帝が慰撫したため一旦は安堵した。しかし永明元年、崇祖と共に誣告により誅殺された。
- 呂文顯は「伯玉は太祖のために謀ることはできたが自らのためには謀れなかった、天命か」と嘆いた。伯玉が微賤の頃、墓相を善くする者が「その墓からは急激な出世をする者が出るが長くは続かず、素行の悪い女子も出るだろう」と予言しており、伯玉自身「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と語っていた。後に姉が嫁ぐ前夜に他人と出奔して行方知れずとなり、後に出家した。伯玉の敗死は予言のとおりであった。