南史卷四十七 列傳第三十七 崔祖思
崔祖思(字敬元、清河東武城の人、魏の崔琰の七世孫)。齊高帝に早くから結び謀議に参与した腹心で、九錫の議に一人反対するなど諫言を貫いた。武帝にも重んじられ、青冀二州刺史で在任中に没した。
年表(1件)
- 永明九年従子の崔元祖が魏使への対応を進言したが聞き入れられなかった
出自と気概
- 崔祖思、字敬元、清河東武城の人。魏の中尉崔琰の七世孫。祖父崔諲は宋の冀州刺史、父崔僧護は州秀才。
- 若くして志気があり読書を好んだ。十八歳で都昌令となり、青州刺史垣護之に従い堯廟に入った際、堯の像と共に祀られていた蘇侯神を「唐堯のような聖人が俗神と同座するのは不当」と論じてこれを除かせ、以後諸々の淫祠が整理された。
高帝への出仕
- 齊高帝が淮陰にあった頃、その名声を慕って自ら結び、輔國主簿となり厚く親任され謀議に参与した。宋朝が高帝を梁公に封じようとした際、祖思は讖に「金刀利刃、齊之を刈る」とあることから斉号を称すべきと進言し、高帝はこれに従った。
- 相國從事中郎から齊國内史に転じた。高帝が齊王となった宴で羹膾の話題から沈文季と応酬し、高帝を喜ばせた。
諫言と武帝への政論
- 高帝輔政の際、九錫を加える議に衆議が賛成する中、祖思一人「公は仁恕をもって社稷を匡すべきで、このようなことはすべきでない」と諫めた。高帝はこれを「荀彧に似た遠慮」と評し、以後要職には就けなかったが礼遇は厚かった。
- 垣崇祖が密旨で朝臣の意向を探った際、光禄大夫垣閎・冠軍將軍崔文仲がそれぞれ答えた話を祖思が伝え聞き、受禅後、垣閎・文仲は爵を得たが祖思は加官のみで給事中黄門侍郎に留まった。
- 武帝即位後、祖思は上疏して教学の振興、質素倹約の政治(唐堯・虞舜の故事、宋武帝の倹約、張妃房の逸話等を引く)、法制の整備(廷尉の律学再興)、太楽伶官の削減(前漢の定員と比較し冗員を廃すべきと論じる)などを説いた。詔で応答があった。
- 後に青冀二州刺史となり清勤謙虚な政治を行い、時事には言及しなかった。武帝はこれを重んじたが間もなく卒し、深く惜しまれた。
附伝(叔父景真・従子元祖・宗人文仲)
- 叔父の崔景真は平昌太守として恵政を行い、蒲鞭を掛けたまま用いなかった逸話で知られ、去任の日には土地の人々が祠を立てて偲んだ。
- 景真の子崔元祖は学問と文章を好み、射聲校尉から武帝の延昌主帥に抜擢され、悼亡詩の唱和を命じられるなど寵遇された。永明九年、魏使李道固・蔣少游が来た際、元祖は「甥の少游には工匠の才があるので宮殿の造りを写させてはならない」と進言したが聞き入れられず、少游は宮室を図画して帰った。後に驍騎將軍を経て東海太守となり、武帝から折々に手勅と賞賜を受けた。青州刺史張沖の上奏を受け、元祖は淮北の穀物流通を豊倹均しくすべきと上書し、聞き入れられた。
- 祖思の宗人崔文仲は徐州刺史・建陽縣子に封ぜられ、百姓に畏れられる政をなし、黄門侍郎・領越騎校尉、随縣に徙封、高帝に纒鬚繩を献じ、汝陰太守で卒し徐州刺史・襄子を贈られた。