南史卷四十六 列傳第三十六 周盤龍

北蘭陵の人、周盤龍(?-永明中、享年七十九)。弓馬に優れた高帝以来の宿将。魏との淮陽・角城の戦いでは子の奉叔とともに奮戦し、父子の勇名は北国にまで轟いた。子の奉叔は鬱林王に寵愛され禁中で権勢を振るったが、隆昌元年、青冀二州刺史への赴任を前に明帝により誅殺された。

年表(5件)
  • 元徽二年桂陽王の乱に際し高帝に従い新亭に駐屯する
  • 建元元年垣崇祖を助け淮南で魏軍を大破する
  • 建元二年魏軍の角城包囲に際し李安人と合流し救援する
  • 永明五年大司馬・征虜將軍・濟陽太守となる
  • 隆昌元年青冀二州刺史への赴任を前に、明帝の命で殺害される

周盤龍

  • 周盤龍は北蘭陵の人。膽気が人に過ぎ弓馬に殊に長けた。宋の泰始中、軍功で晉安子に封ぜられた。元徽2年、桂陽王の乱の際、盤龍は冗従僕射として齊高帝に随い新亭に頓し、次第に驍騎將軍に至り沌陽侯に改封。高帝即位後、右將軍に進む。建元元年、魏が夀春を攻めた際、軍主として仮節・豫州刺史垣崇祖を助け魏を大破した。上はこれを喜び詔で称美し、金釵20枚を盤龍の愛妾杜氏に送り「周公の阿杜に餉る」と手ずから記した。
  • 翌年、魏が淮陽を攻め角城を囲んだ。先に上は軍主成買を角城に戍させており、買は王儇に「この度の行では必死に報いる、家門の名誉が失われねば良い、弱息が一人あれば十分」と語り、その意味を問われ「もし賊を殺せなければ賊に殺される、弱息が世子(仕官する子)にならなければ孝子(喪に服す子)になる、孝子であれば門を素堊に飾り世子であれば丹赭を施す」と答えた。まもなく買が囲まれると上は領軍將軍李安人に救わせ、盤龍にも馬歩を率いて淮陽から李安人に合流させた。買は魏と戦い多く傷殺したが、ある朝手中に数升の血を見て、その日に戦死し首を斬られたが屍は鞍上に留まり自軍まで奔り帰ってから初めて倒れたという。
  • 盤龍の子奉叔は単馬で200余人を率いて陣に陥ったが、魏軍1万余騎が左右の翼を張って包囲した。一騎が奉叔全滅の報を伝えたため盤龍は食事を放り出し馬を馳せ矟を奮って「周公が来た」と自称し魏陣に突入した。魏人は元来盤龍の驍名を畏れ皆逃げ靡いた。この時奉叔はすでに魏軍を大殺して脱していたが、盤龍はそれを知らずに東西に駆け回り、これを見た奉叔が父の姿を認め再び馬を躍らせて陣に入り、父子二騎で数万人を縈攪して魏軍を大敗させた。盤龍父子はこれにより北国にまで名を轟かせた。盤龍は形容が痩せているが臨軍すると勇果で諸将は及ばなかった。
  • 永明5年、大司馬・征虜將軍・濟陽太守。武帝がしばしば講武を行い、盤龍に馬軍を率いさせ校騎し矟を騁せさせたが、後に疾を得て光祿大夫となり、まもなく兖州刺史に出て侯に進んだ。角城戍將張蒲が魏と密通し大霧に乗じ船で清中に入り採樵と称して魏人を城東門へ直行させたことが有司の奏で発覚し、詔で白衣領職とされたが八坐がその復位を奏し許され、東平太守を領した。盤龍は年老い才弱であることを理由に鎮辺の解職を求め許され、散騎常侍・光祿大夫に還った。武帝が「卿は貂蟬(文官の冠飾)と兜鍪(武将の冑)とどちらが似合うか」と戯れると、盤龍は「この貂蟬は兜鍪の中から生まれたものです」と答えた。まもなく病没、年79。

周奉叔――盤龍の子

  • 子の奉叔は勇力絶人で若い頃から盤龍に従い征討に加わったが、その所在で暴掠を働いた。東宮直閤將軍。鬱林が西州にあった頃から密かに奉叔に取り入り、即位後は直閤將軍曹道剛とともに股肱となった。奉叔は騎馬を善くし帝もこれに学び、深く親寵され宮中に自由に出入りできた。朝士を陵轢し司空王敬則に米200斛の交換を求めたが敬則が100斛しか与えなかったため受け取らず、敬則は恐懼して200斛と金鉿等の物を追加で餽った。敬則の一内妓を奉叔が求めた際は敬則の許諾なく直接押し入ろうとし従者は皆刀を半ば抜いたが、敬則は逃げ隠れた末に「弟よ、まさか私を顧みぬというのか」と自ら呼びかけ、宣旨で妓を求める旨を伝えられ事は収まった。
  • 奉叔は綦母珍之・曹道剛・朱隆之と結んで威権を煽り弄び、常に単刀20口を翼えて禁闈に出入りしたが、別の詔もなく門衛はこれを咎めることもできず「周郎の刀は君を識らない」と評された。武帝の御角や輿、御仗を求めて左右に給する要求は皆通り、さらに黄門郎まで求めたが、明帝は輔政の身として固くこれを拒み、蕭諶・蕭坦之に説かせて奉叔を外鎮に出させ腹心を植えさせようとした。奉叔は方伯の重責に説かれ、隆昌元年、青冀二州刺史に出ることとなった。
  • 帝に千戸侯を求め帝は許したが、明帝は蕭諶に「もし千戸を与えられなければ五百戸を減ずることになる、さもなくば周郎は刀頭で決着をつけるだろう」と語った。結局曲江縣男に封ぜられると奉叔は大いに怒り衆前で刀を振るい目を怒らせ歯を切ったが、明帝の説諭で受け入れた。しかし赴任の際、明帝は奉叔の制御が難しいことを慮り、早朝の参内の折に後堂へ引き入れさせ廷尉に送り殺させた。