周山圖
- 周山圖、字は季寂、義興義郷の人。家世は寒賤で15、6歳にして気力は衆に絶え食は数人分を兼ねた。郷里の狩猟の集まりでは常に主帥として指揮を執り皆従った。産業には従事せず常に将となることを願ったが勇健の反面、弓馬には不得手で書題も拙く謹直寡言、人の長短を語らず交際は白髪になるまで変わらなかった。宋の元嘉27年、魏軍が瓜歩に至った際、臺符が健児を募り、山圖は応募して白衣隊主を領し軍功で員外郎・振武將軍を授かった。
- 鎮軍將軍張永の魏侵攻の際、山圖は2千人を率いて輸送を担い武原に至り魏軍に追われ激戦し多くの死傷を出したが、魏軍もその勇を「武原將」と呼んだ。永の軍が大敗すると山圖は散卒を収め下邳城を守り都に還った。給事中・冗従僕射・直閤將軍。山圖は酒を好み時に失態があり明帝からしばしば叱責を受けたが、その後改めた。淮南太守に累遷。桓温の冢が盗掘され宝物が大量に流出した際、客が盗品を密かに山圖に贈ったが、受け取らず官に届けさせた。
- 左中郎將に遷った頃、齊高帝が輔政すると山圖は密かに「沈攸之には久しく異図がある、備えを立てるべきだ」と啓し、帝は笑って納れた。攸之の乱が起こると武帝が西討都督となり、山圖を軍副に啓した。攸之が郢城を攻めた際、武帝が山圖にその形勢を量らせると「攸之の人柄は険刻で士心を結びつけられない、堅城の下に兵を頓させるのはむしろ離散の兆しとなろう」と答え、果たしてその通りとなった。高帝は「周公の先の言葉はまさに事を見抜いていた」と語った。建元元年、晉興縣男に封ぜられた。
- 武帝踐阼後、竟陵王鎮北司馬・南平昌太守を帯び、盆城の旧交により宮省に出入りし親信された。義郷縣の長風廟神は元は鄧という縣令であったが没後霊験を発すると伝わり、山圖はこれに神位を加えることを啓した。上は「狗肉を献ずればそれで済むこと、なぜ階級を加える必要があるのか」と答えた。黄門郎・領羽林監・四廂直衛に転じ、新林に別荘を立て朝夕往来したため、上は「卿は万人の都督を罷めて郊外を軽々しく行き来している、これからは別荘に行くにも仗を伴わせよ」と語った。病に及んで上は手ずから見舞いの敕を送り、まもなく卒した。年64。