戴僧靜
- 戴僧靜は㑹稽永興の人。若くして膽力があり弓馬に長け、刺史沈文秀に仕え共に魏に虜われたが、後に家属を連れて淮陰に叛き帰った。齊高帝は常に側に置き優遇したが、都で密かに錦を持ち出す事が発覚し南兖州獄に繋がれた。高帝は薛深を遣り酒食を送り、刀子を魚腹に隠して差し入れさせた。僧靜は獄吏と酒を酌み交わし酔わせると、刀で械を刻み自ら鎖を折って屋を破って逃げ、高帝の元に帰った。帝はこれを匿い、家の貧しさから年給榖千斛を与えた。
- 魏軍が至った際、僧靜は募に応じて単刀直進し魏軍を敗走させ、追撃して3級を斬った。寒気の甚だしい時に衣を脱いで3つの首を口に銜え泳いで戻ったという。沈攸之の乱が起こると高帝は朝堂に入り、僧靜に腹心を率いさせ先んじて石頭を経略させた。蘇烈が倉城の門を守っていた時、僧靜は書を射て烈に送り、烈は夜密かに縋って城に入った。袁粲は城西南門に登り燭火を並べたが、臺軍が至るとこれを射て火を消し、東門へ回り込んだ。粲の党孫曇瓘は驍勇で戦うたびに大殺傷し、官軍の死者は百余人に及んだが、軍主王天生の殊死の抵抗で持ちこたえた。亥の刻から丑の刻にかけて赤い流星が城中に落ち、僧靜は力を尽くして倉門を攻め、粲を東門外で自ら斬った。軍が門を焼いて突入し、この功により前軍將軍・寧朔將軍を授かった。
- 高帝即位後、建昌縣侯に封ぜられ太子左衛率。武帝踐阼後、北徐州刺史に出て貧民に牛を買い与え耕作させ荒地の開墾を助けた。後に南中郎司馬・淮南太守。永明8年、巴東王子響が僚佐を殺した際、武帝は僧靜を召し領軍として江陵へ向かわせようとしたが、僧靜は面と向かって「巴東王は年少で、長史・司馬が捕えるのを急ぎすぎたため忿って難を思わず殺した、天子の子が過って人を殺したとて何の大罪でしょう、今急いで軍を西上させれば人情はますます惶懼するだけです、臣は勅を奉じられません」と啓した。上は答えなかったが内心これを善しとした。廬陵王中軍司馬・髙平太守に徙って卒し、諡は壯侯。